「――後悔先に立たず、って言葉知ってるかい?」


不意に背後から声が聞こえて。

自分の横を長い腕が通りすぎていく。

それとは反対側の肩を叩かれて振り向くのと同時に。

その、手が。

栗色の髪を掬った。


「し…つ、長…?」

「君は押しが弱いからダメなんだよ」


――こ、この人、いつの間に…。


「君のことだから、触れてみたいけど起きたらどうしよう、何て言い訳しよう、って考えてたんでしょ?」

「…っ、ち、違いますって!」

「そうなの? ま、どっちでもいいけど。でも――」


言いながら、室長は視線をあの子に戻す。

そして、またオレに止める。

何を言われるかドキドキしていたら。


「ところでさ、どうしてこの子はこんな所で寝てるの?」

「…さぁ?」


…それはオレが聞きたい。


「そっか」


ゆらりと持ち上げられた腕が、また、あの子へと伸びていく。

細長い指が、色白の頬に、添えられる。

そんな行為を簡単にやってのける室長がちょっと羨ましいとか思う辺り、オレの想いは本物で。

この人には隠し事なんて出来ないと思いしらされてる様な気さえする。


「ねぇ、こんなとこで寝てると風邪引くよ? ついでに、班長くんに食べられちゃうよ~」

「室長ッ!!」


肩を揺すられて、眠りから覚醒する。

惚けているその表情が堪らなく可愛い。


「……室長? あれ? 班長まで……」

「おはよう」


きょろきょろと辺りを見回して、ここが室長室だと気付くまで十数秒。


「す、すみませんっ、あの、僕…っ」

「気にしなくて良いよ。お陰で目の保養になったし。特に班長くんが」

「何言ってんですかっ!」


そんな室長とのやりとりを、君は笑顔で見ている。

その笑顔に、思わず見とれてしまう。

室長が居るのも忘れて、無意識に手を伸ばした。

あと少しで栗色の髪に指先が触れる。

そんな距離になった刹那。


「──あ! こんなとこに居たのか」


聞き憶えのある明るい声が、室長室に木霊した。

オレは見逃さなかった。

声が響いた瞬間、君の表情が見たことも無いくらい輝いたのを。


「先輩!」

「小夜ちゃんがお茶しようって言ってたけど。来るか?」

「はい、行きます。あ、室長と班長も如何ですか?」


何も言えずにいるオレの腕を室長が引く。


「折角だけど、ボクと班長はオシゴトが残ってるんだよ。ボク等の分まで楽しんでおいで」


言って、室長は手をヒラヒラと振る。


「お邪魔しました」


ペコリとお辞儀をした君は、呼びに来た彼の隣に付いて室長を出て行く。


「残念だったね」

「何がですか」


室長の手を振り解いて、資料集めを再開する。


「あの子だよ」

「……それが、なんですかっ!?」

「あの様子だとデキてるよね」

「何がですか」

「んー? あの子と彼だよ。見たでしょ、あの笑顔」


あやしーと思ってたんだよねー、とかなんとか言いながら、室長は椅子にどっかりと座る。

仕事を始めるのかと思ったら、手近な紙を折り始めた。


「仕事するんじゃないんですか?」

「勿論するよー。でも今は……」


真剣になっているその手元を覗くと、そこには簡素な紙飛行機があった。


「失恋しちゃった君を慰めてあげようかと思ってさ」

「なっ…!?」


思わず、手にしていた書類が床に落ちる。

慌てて拾っていたら、背中に何かがぶつかった。


――紙飛行機…。


「残念だったね。もう、触れられないね。触れたいのに、触れられない。それって切ないよね」


本当に時々だけど。

この人から発せられる言葉に心なしかなだめられる。


「……何のことっスか? ほら、遊んでないで仕事してくださいよ」

そして時々、救われる。