あとひとつ、あとひとつだけ。

 願いが叶うのならば、もう一度だけ、あなたに会いたい。

 この命、消えるのならば、あなたの腕の中がいい。

 ごめんね、春樹。

 時間がないの。

 もう、ここには…。

 泡霞は立ち上がり、駆け出した。

 人混みも気にせずに。

 周囲から忌み子に対する悲鳴が上がる。

 肘に肌が触れる。

 頬に肌が触れる。

 脚に肌が触れる。

 薄くなっていく。

 それでも…!!

 目の前に春樹が見えた。

 春樹もこちらに気づく。

「泡霞ーー!!聞こえるかーーー!?」

 その声に涙が溢れた。

「教会の婆がよー!お前の名前はーーー!!消えてしまうからじゃないってーー!!」

 泡霞は目を見開いた。

 名前?

「ほんとは淡いにしようとしたけどーー!!泡なら消えても空気にとけるからってーー!!それならーー!自分が見つけだしてやれるからってーーー!!」

 涙が溢れた。

 どうやっても止まらない。

 もう肌は透けかけている。

「泡霞ーーー!!」

 人混み。

 肌が触れる。

 間に合って。
 
 お願い。

 あの人に触れるまでは、私は消えるわけにはいかないの。

 あと少しだから──!!
 
「春樹ーーーー!!!」

 泡霞は悲鳴のような声を上げた。

 涙が止まらない。

 どうすればいいのだろう?

「あのねーー!!私、春樹のことがーー!」

 春樹との距離はあと数メートル。

 指先が泡沫となり、消え始めた。

 まだ。

 あと少し───!!

「泡霞!!」

 泡霞は叫んだ。

「来て!春樹!!」

 春樹が泡霞を抱きしめる。

 温かい。

 これが、人の体温。

 春樹の悲痛な声。

「好きだ…!!誰よりも…!」

 泡霞は泣き笑いの表情になった。

 足が青白い泡沫になっていく。

 抱きしめ、そして囁く。

「さよなら…大好きな人…。」 
 
 そして春樹に口づけながら言った。

「愛してるよ…春樹…。」

「泡霞あぁぁ!!」

 泣かないで。

 私は…。

「は…る…き…。」

 大好きだよ。

 いつまでも…。

 涙が…宙に舞って消えた。
      *     *
「は…る…き…。」

 腕の中で…少女は消えた。

 青白い泡沫になって。

 パーカーと着ていた服だけが腕の中に残った。

 むなしかった。

 どうすればいいかわからないくらい、つらくて、苦しくて…。

 声を枯らして叫んだ。

 彼女の名前を。

 涙が止まらない。

 どうすればいいのかわからないくらい、心が痛んだ。

 泡霞はわかっていたのだ。

 覚悟していたのだ。

 こうならずとも、彼女は必ず今日消えていた。

 彼女がそれを望んだのだ。

 そう、春樹の腕の中で消えることを…。

 声の限り泣き叫んだ。

 心がズキズキ痛んだ。
  
 これならまだ、身を引き裂かれた方がましってくらいに。

 彼女は消えた。

 だが、彼女のぬくもりは、春樹から消えなかった。

 彼女は確かに消えた。

 そう。

 鮮明に、鮮やかな記憶を残して…。
      
 これは、遠いようで近い時代に起きた、ひとりの少年と、泡沫の少女の物語。