泡霞は目から大粒の涙を流し、そして一言、こう呟いた。

「そうだね……もう、いいよ。」 
 
 まるで、かくれんぼに答えるかのように。

 その声は、春樹には届かない。

「……ごめんね…神様……泡霞は……。」

 風がさわさわと吹きすぎる。

「泡霞は……人間に……恋をしてしまったから……。」

 泣きながら微笑む。

 その姿はひたすら薄かった。

「……ここで…。」

 溢れる涙は嗚咽とともに消えていく。

「……消える……。」
      *     *
 春樹は走りに走り、教会まで来ていた。

 なぜだろう?

 怖かった…はずなのに。

 恐ろしかった…はずなのに。

 こんなにも胸が痛い。

 泡霞のあの表情が消えない。

 傷ついた顔。

 春樹が傷つけた。

「…なんで…!!」

 急激に頭が冷え、視界が鮮明になる。

 ここはどこだ?

 村の教会だ。

 俺は何をしてしまった?

 泡霞を…あの愛しい少女を…傷つけた…。

 涙がにじんだ。

 男らしくない。

 そう思うのに、体は正直だった。

 涙が溢れて止まらない。

 なぜだかもわからないのに。

 と、教会の扉が開いた。

「あぁ、春樹かい。」

「…あ…。」

 そこには教会の婆がいた。

「まったく。情けなく泣くような名前にはしてないんだけどね。」

 呆れたように言いながら、隣にしゃがみこむ。

「…泡霞だろう?」

「なんで…。」

 わかったんだ、とは聞けなかった。

 代わりに出たのは、情けない嗚咽。

「わかるさ。あれはもうすぐ消える。」

 婆は淡々と言った。

「連れてかれるのは、神の世界じゃない。今度は、黄泉の世界だよ。」

 その声は、心なしか震えていた。

「…あれはね…あたしが初めて名付けた子だよ…。」

 もごもごと言っているのに、その言葉は真っ直ぐに春樹の心に入ってきた。

「…霞の中、立っていたんだよ。たった1人で。」

 婆は思い出すように言った。

「…泡はね、本当は淡いという字にして、ほかの名前にしようとしてたんだよ。けどねぇ…なんだか本当に消えそうでねぇ…。泡なら…消えても空気に溶けて残るだろう?霞のように漂って。それに水の中ではちゃあんと見える。」

 春樹はハッとした。

 婆の目には涙が溢れていた。

「…どんなに薄くなっても…消えないように………あたしが…見つけられるように…。」

 春樹は目を見開いた。

 たしかに恐ろしかった。

 怖かった。

 だけどそれは……。

「…あの子がこの世から消えたって…あたしの中から消えはしない。……忘れはしない……。」

 春樹は立ち上がった。

 その目に迷いはない。

「婆さん、俺、泡霞んとこ行ってくる!まだ間に合うはずだ!婆さんの言ってたこと、伝えるから!ちゃんと……!!」

 春樹は走り出した。

 理屈とか、そんなの関係ない。

 恐ろしかったのは、泡霞が消えること。

 消えていく泡霞が恐ろしかったのではない。

 縁日のある神社まで、全力疾走する。

 時間が、刻々と過ぎていった。