「いっ…一体何が…あっ!?」

「ぐわぁぁああ!!!」

 鰐蛇がものすごい勢いで暴れまわって…いや、のたうちまわっている。

「どうして…!?治療はしたはずなのに…。」

 翠は鰐蛇の体に視線を滑らせた。

「…異常は特に…な…。」

 ぐわっと開かれた口にびくっと肩を揺らす。

 と、なにか黒いものが見えた。

(…なに…?)

 隣で蛍が翠をかばいながら言う。

「あの黒いのなんだかわかるか?」

 翠は目を凝らし、そしてはっとした。

「っ!虫歯…!」

「はっ!?虫歯!?」

 翠は大声を上げた。

「離れて耳を塞いでください!!『あれ』やります!!」

(『あれ』?)

 蛍は不思議に思いつつも距離をとって耳を塞いだ。

 次の瞬間!!
 
 ピイィィィィイイイ!!!

 ものすごく高い音が響き、鰐蛇が意識を失った。

 見れば、翠は指をくわえている。

「指笛…?」

 翠は手早く鰐蛇の口を開き、歯を抜いて治療をしていく。

 その額に汗が伝った。
 
「っ…!よし…!」

 翠がものすごい勢いで走ってくる。

「…そろそろ動き出します。離れて。」

 全員が下がり始めた瞬間だった。

「ぐるるるる…。」

「………!」

 鰐蛇が唸りだした。

 誰もが身構え、緊張を走らせた瞬間だった。

「月明かりの水面に舞えや詠えや 水の民

 我らの願いよ 彼方へ響け

 永久に詠えよ 我らの誇り

 恒久の果てに消えゆく君に

 この唄を贈ろう

 その指笛に 命はひれ伏す
 
 その歌声に 命は静まる
 
 我らの誇りは 命果てるまで  」

 透き通った透明な声が鈴のように響いた。

 蛍は愕然としていた。

(この声は鰐蛇の群れのリーダーが仲間を従わせるために出す音…?つまりこいつは…。)

 鰐蛇を従わせている。

 鰐蛇のリーダーは、仲間に対して透き通った声を出す。

 その声にそっくりだった。

 そして鰐蛇は静まった。

 その場にいた誰もが息を呑み、それを見守っていた。

 やがて、唄の余韻が消え、カツンッ…と翠のブーツの音が響いた。

「フゥウウウウ…!」

 その音に気圧されたように鰐蛇が動き出す。

「…いい子。」
  
 呟くように言うと翠は振り向いた。

「蛍さん、樹さん、お話があります。明日の昼、私の家に来てくださいますか?」




「して…話とは?」

 樹の言葉に翠は頷く。

「鰐蛇が暴れた原因は、最初は怪我、先ほどは虫歯でした。」

 翠はとつとつと、淡々と話す。

「…どちらも体に限界がきている証拠なんです。」

 樹が息を呑んだ。

「それはつまり…。」

「もう闘うのは無理です。」

 きっぱりと言い切った翠に、樹がうろたえた。

「だ…だが…私には…。」

「あなたの問題じゃないんです。」

 反論しようと口を開きかけた樹は、翠のその凛とした光に口をつぐんだ。

「私は獣の医術師です。…お二人は…獣の医術師が何のために存在すると思いますか?」

 樹が即座に答えた。

「獣のために決まっておろう!?何が言いたいのだ!?」

 蛍は慌てて樹を制し、口を開いた。

 樹がぐっと押し黙る。

「…人のためだ。」

「蛍!!何を…!?」

「…獣を操る、人のためだ。…違うか?」

 翠は頷いた。

「…そうです。私は…人のために働いてきました。」
 
 翠は樹の瞳をまっすぐに見つめた。

「だからこそ、言っているのです。このままあの鰐蛇に乗れば、あなたは死にます。」

「っ…!」

「…それでもあなたは、あの鰐蛇にまたがるのですか?」

 と、唐突に戸が開かれた。

「…翠。」

 翠はゆっくりと振り返った。

「…棟梁?」

 白髪のちっこいおじいさんが立っていた。

 右手に杖、頭にフードと、まるでどこかの妖精のようだ。

 優しそうな目には、緊張した光が宿っていた。

 つられるように緊張しながら、蛍は翠を見た。

「…なにか…あったんですか?」

 その二つの紫水晶に一瞬戸惑いの光を宿し、翠は棟梁を見据えた。

「…樹殿の鰐蛇の調子が戻らん。…助からなかった場合…わかっておるな?」

 翠の瞳が揺れた。

「お前は鳶(とび)のようになるでないぞ。」

 瞬間、その瞳が見開かれた。

 蛍は片眉をあげた。

「……?」

 何を言おうと、何が起ころうとほとんど表情を変えなかった翠が、目の大きさを変え、顔色を変えた。

『鳶』という名を聞いて。

 女の子にそのような勇ましい名前はつけないだろうから、男だろうか?

「あやつも腕の良い医術師であった。あの夜、あんなことがなければ今ごろお前と…。」

「やめてっ!!!!」

 翠が悲痛な声で絶叫した。

「やめて…。」

 その目から雫を落としながら翠は言った。

「…出てって…一人にして…。」

 みながその様子に困り果てて出ていく。

 一人、二人と出ていく。

 泣いた頭でぼーっとしている。

 すべてがどうでもよくなるようなまどろみに、翠は堕ちていった。