家に入ると、どっと疲れが襲ってきて、翠と蛍はソファーに沈み込んだ。

 翠がこてん、と蛍に寄りかかった。

「…どうした?」

 蛍が問えば、翠は首を振り、蛍にすり寄った。

「…無事でよかった。」

「おかげさまで。」

 蛍は翠に額を合わせた。

「…いなくなるなよ。」

「そっちこそ。」

 蛍はぎゅっと翠を抱き寄せ、そっと口づけた。

「…蛍…。」

 翠が名前を呼んだ。

 それだけで、心が震えた。

 昔は愛することなんて、なんのためにあるのかさえ、わからなかった。

 愛する理由がわからなかった。

 わからない。

 気づきたくなかった。

 知りたくなかったのだ。

 そうやって逃げてきた。

 だけど、翠と出会って人を愛することを知った。

 その痛みを知った。

 そしてその…儚さを知った。

 抱きしめていなければ、それを感じられず不安になる。

 本当の愛とは、なんなのか?

 そんなのわからない。
 
 蛍は翠の肩に額をつけた。

「…愛してるよ。」

 小さい声。

 本当に小さい声だった。

 けれど、翠は聞き逃さない。

 蛍は目を閉じた。

 翠の手が蛍の背中をなでる。

 愛する理由なんて、そんなものわからない。

 けど、それを知らなければならないなら、これから翠と一緒に探していこう。

 わからないなら、ひとつひとつ確かめてみよう。

 蛍は顔を上げた。

 心は単純だ。

 なのに、他人のことになれば、これほど難しいものはない。

 難攻不落でも、攻略できてしまうこともある。

 できないことだってあるのだろう。

 それでも一つわかったこと。

 それは───。

 蛍は翠の紫色の瞳を見た。
 
 それがゆっくりと閉じられる。

 金色の瞳が揺れる。

 ゆっくりと距離がちぢまる。

 一つわかったこと。

 墜ちた途端、『心』は制御不能になる───。

 二つの影が重なり、その距離はなくなった。

 外は相変わらずの雨だ。

 雨は2人にとって隠してくれる水の簾だった。

 けれど、今はもう違う。

 雨は2人を包む、世界の一部なんだろう。

 2人の永遠の刻を刻む、2人の世界の時計。
 
 そう思った。

 感じるのは、その温かい温もり。

 聞こえるのは互いの呼吸と血潮の流れる音。

 これは、愛する人を失った少女と、愛されることを知らない少年の、遠くて近い時代に起きた、とても近いようで、本当に遠い世界の物語…。