バサッと音を立てて蛍は羽ばたいた。

 金色の目を使えば、数キロ先までは見える。

 上空に上がれば岩戸ぐらいすぐに見つかった。

 蛍は入り口に向かって急降下した。

 そのまま突っ込み、中を突っ切った。

 男たちが悲鳴を上げて腰を抜かす。

 蛍は人だかりの中に突っ込んだ。

「うわぁあ!!」

「ひ…ひとに羽が…!」

「ひぇぇええ!!」

 じりじりとみんなが後ずさる。

 蛍はギッと男たちを睨みつけた。

「…そこをどけ。翠を助ける。」

 一人が震えながら叫んだ。

「だめだ!鰐蛇が出てくる!!みんな死んじまう!!」

「翠がそこにいるだろ?」

 蛍はぐっと詰め寄る。

 黙って耳を澄ます。

(…四十メートルくらい先か?翠のにおいもするな…。あとは麝香か。…なるほどね。)

 蛍は声を上げた。

「じゃあ、今すぐ逃げろ。俺はなんて言われようとそこを開ける。そこをどけ。」

 また誰かが叫んだ。

「どけるか!!村が全滅するかもしれねぇんだぞ!?翠一人の命と、俺たち全員の命、どっちが重いと思ってるんだ!!」

 蛍は瞳を閉じた。

 そして、ゆっくりと口を開く。

「…そんなの翠の命に決まってるだろ。」

「なっ!?」

 反論しようとした男を制し、蛍は困ったように笑った。

「…なんだよ。惚れてるってそういうことじゃねぇの?」

 そしてバサッと翼を広げた。
 
 助走をつけるために後ろに下がる。

「…世界を敵に回してもっ!」

 タッと走り出し羽を羽ばたかせる。

「守りたい奴なんてっ…!」

 そして、足を前に伸ばして一気に突っ込んだ。

「一人でいいんだよ!!!」

 ものすごい音がして、岩が崩れる。 

 そして、誰の耳にもその命の叫びは届いた。

「逃げてぇぇぇええええ!!!!」




「翠ーーーーーっ!!」

 声がして振り向くと、羽を伸ばした蛍がいた。

 鰐蛇が自分を喰らうまであと数秒。

 たぶんもう、間に合わない。

 翠は前に向き直り、鰐蛇に向かって手を広げて涙を流しながら叫んだ。

「お願いっ!!逃げてっ!!蛍まで死なないでぇぇぇええ!!」

 涙が零れ、宙に浮かぶ。

 それがとてもゆっくりと、はっきりと見えた。

 もうだめだ、と目をつぶった次の瞬間、バサッと音がして、体が宙に浮いた。

「───っ!?」

 驚いて目を見開く。

 耳元で、はっきりとした声がした。

「嫌に決まってんだろ?バァカ。」

 聞いた途端、安心で涙がこぼれた。

「なんで…私、蛍のこと傷つけたのに…っ!どうして…っ!?」

 蛍は翠を後ろから抱いたまま、翠の肩口に額をつけた。

「…心配した。」

「…蛍…。」

 既視感があった。

 前にもこんな風に抱きしめられて、そう言われた。

 雨の中、こんな風に…。

(…そっか…あの時だ。)

 蛍が鰐蛇と距離を取って降り立つ。

 翠もそっと足を降ろし、地面に立った。

 そっと蛍に寄り添えば、不思議と安心感があった。

 蛍の右手が翠の腰に添えられる。

「グルルルル………。」

 低くうなる鰐蛇を、蛍は金色の瞳で見つめた。

 ただ見つめて、その目を逸らさない。

「グルル……。」

 だんだんと鰐蛇がおとなしくなる。

 誰もが息を詰めて見守っていた。

 翠は蛍のシャツをぎゅっと掴んだ。

 翠の腰に添えられた蛍の手に、わずかに力が入る。

 ただならぬ沈黙が流れていた。

 と、次の瞬間だった。

「フゥゥゥウウ……。」

 鰐蛇が頭を垂れ、蛍に敬愛を示す…つまり群れのリーダーへの構えを取った。 

 翠は目を見開き、それを見つめた。

 と、蛍が低くうなるように言った。

「…去れ。」

 鰐蛇がのしのしと奥へ戻っていく。

 やがて、その長い尾が見えなくなった。

 途端に力が抜けて、翠はその場に座り込んだ。

「おいおい…情けねぇな……。」

 翠はしゃがんで顔をのぞいてくる蛍の首に腕を伸ばして、ギュッと抱きしめた。

 体が震えていた。

 怖かった。

 それに気づいたのか、蛍は翠を優しく抱きしめた。

「蛍…?」

「ん…?」

 呼びかけると、愛しげに髪を撫でられた。

「…蛍…。」

 もう一度呼ぶと、彼は「なんだよ?」と優しく問う。

 翠は一言、

「ごめん。」

と言った。

 それにどんな意味が込められてるかなんて、翠にさえよくわからなかった。

 突き放したりしてごめん。

 会わなくてごめん。

 心配かけてごめん。

 …傷つけて…ごめん。

 言葉にならず、翠は肩をふるわせて涙を流した。

 しばらく蛍は翠の髪を撫でていたが、やがて小さく、でもはっきりと、

「…もしお前が俺にチャンスをくれるなら、俺はそれにきっと答えてみせるのに…。」

と言って翠の肩口に顔をうずめた。

 翠は蛍の背中を撫でた。

 そうすることでしか、愛しさを伝えられなかった。

 言葉が出てこなかった。

「…なぁ、俺はわからねぇよ。」 

 蛍が寂しそうに言った。

「こんな風に誰かを愛するのは初めてだ。それに、お前が鳶を愛したように愛されたことがない。」

 翠は蛍の腕の中でまつげを伏せた。

 感じるのは、その温かいぬくもりと、腕に包まれる安心感。

 けれど彼は、寂しそうだった。

「…言葉にしてくれねぇとわかんねぇ。…もし今俺が…。」

 蛍の言葉が不安げに途切れた。

 が、意を決したように言った。

「もし今俺が「好きだ」って言ったら怒るか?」

 翠は目を見開いた。

 彼なりに考慮した一言なのだろう。

 もしまだ鳶が好きなら…という言い方で、翠に『断る』逃げ道を作ってくれている。

 その優しささえ、愛しくてたまらない。

「ここで嫌われても構わないくらい、お前が好きだ。……お前じゃなきゃダメなんだよ…。」

 弱々しく紡がれた最後の一文に、翠の心からほかのすべてが追い出された。

 蛍以外いらない。

 翠は蛍の金色の瞳を見つめて言った。

「…蛍が好き。もうどうしようもないくらいに。」

 蛍の目が見開かれた。

 そしてふっと優しくほほえむと、黙って翠を抱きしめた。

 翠はそっと言った。
 
「…蛍がそばにいるなら、欲しいものも、好きな場所も、なんにもないの。」

 蛍の胸に頬をすり寄せて、囁く。

「…ただそばにいて…?」

 頷くように蛍が翠を抱き寄せた。

 それだけで、なんだか心が満たされた。


 
 その夜、夢を見た。

 夢の中で翠は一面の草原にいた。

 そして、目の前には鳶がいた。

 茶色い髪も、黒い瞳も、何一つ変わらない。

 翠の思い出のままの鳶。

 あぁ、色あせないんだ、と思った。

 ほかの誰を愛しても、鳶との記憶は色あせない。

 翠の心に、鮮明に残る。

 鳶は心の底から愛しそうに翠を見つめ、頬をなでた。

 ふわっと髪が持ち上げられ、鳶は翠の一束の金髪を撫でた。

 そして、翠の肩に両肘を置いて包むように抱きしめると、一瞬。

 ……ほんの一瞬、翠に口づけた。

 そして、翠を見つめて何か言う。
 
 その言葉に、翠は目を見開き、そしてほほえんだ。

 笑ったけど、目からは涙が溢れた。

 そして、鳶は翠の腕を離れ、草原の彼方へと消えていった。

 

 翠はまぶたを開いた。

 ソファーで眠ってしまったらしい。

 外は雨なのだろうか?

 窓には水の簾が掛かっていて、何も見えない。

 それなら外からも自分たちは見えないだろう。

 翠は蛍に寄り添い、もう一度目を閉じた。

 幸せだった。

 まぶたの裏に、一瞬鳶の顔が浮かんだ。

『…絶対幸せになれよ。』

(…わかってるよ。)
 
 翠は蛍の手を握った。

(私は蛍が好きだけど、鳶のことは忘れない。)

 そして、ゆっくりと眠りに落ちていった。