はぁ、はぁと
走ったお陰で呼吸が乱れる。


私の右の手には、
さっき見事確保した羽崎十哉の腕が
しっかりと握られている。

その彼も、呼吸が少し乱れていた。



風が涼しい。
緑がすぐ近くに感じられる。

学校の体育館の裏。

そこまで、彼を引っ張って全速力で走ってきた。
そのせいで呼吸がかなり苦しい。

肺に酸素を流し込み
呼吸を整えた。


そして、彼の目を見て
笑う。



「どう?ビックリしたでしょ」


「…なんで、ここにいるんですか…」



羽崎くんは動揺を隠しきれない様子で私に
そう問いかけた。



「晴瀬事務所に入ってくれないか
もう一度申し込みにきたの」



羽崎くんの目を見据える。


「……俺、断りましたよね。
あのとき。バッサリと」


「えぇ。そうね。
だから、もう一度申し込みにきたの」


名刺ケースをバックから取り出して
そこから1枚抜き出す。


「もう一度言うわ。」


羽崎くんに向かって名刺を差し出した。



「私の相棒になってくれませんか?」



サワサワッと
葉と葉同士が擦れ会う音が聞こえる。

風が私たちの間をヒューと
吹き抜けていく。


目の前の彼の口が小さく開いた。


「……何回も言いますけど
お断りします。」


「じゃあ、私も何回も言うわ。
私の相棒になってくださいって」


「しつこいですね」


「今の私は洗い物にこびりついた油汚れの
ようにしつこいわよ」


にっこりと彼の目を見て笑う。

彼はめんどくさそうに
1つため息をついた。


「なんで、そんなに
俺にこだわるんですか」


彼の目が私の目をしっかりと見据える。


「代わりなんて、数えきれないほど
いる。
それなのに、なんで俺なんですか」


なんで……。


母にも聞かれた。
どこが、そんなにいいのかと。


「……わからない」


「は…?」


羽崎から間抜けな声が漏れる。


「わからないから、知りたいの。」


ぎゅっと拳に力が入る。


「わからないから、それを知りたいの。
なんで、こんなに君にひかれるのか
君と過ごせばわかる気がするの。
だから…」


だから


「私と一緒に仕事をしてください」


私はガバッと頭を下げた。


「どうしようもない、まがままなのは
わかってる!
だけど…君に歌ってほしいの…!
君に…私の曲を歌ってほしい……!」


次々と口から溢れ出す。


「君じゃなきゃダメなの…!
羽崎十哉じゃなきゃダメなの!
他の人じゃなくて君がいいの…!!」


1つ深呼吸した。


「……お願いします…!
私の相棒になってください!!」


名刺を持つ手が震える。



頭上から「……俺は…」と
小さく震えた呟きが聞こえた。



そのあと
「顔をあげてください」としっかりとした声が聞こえた。


ゆっくりと頭を持ち上げる。


顔をあげて彼の顔をみた瞬間ぞっとした。


さっきとは全然違う彼の表情。

冷たい。
全てが冷たくてまるで凍っているみたい。


「お断りします。
オーディションに応募したのは知り合い
ですし、参加したのも知り合いに言われた
からです」


声もさっきとは違って
感情が感じられない冷たい声。


「そこに俺の意思はありません。
それに、晴瀬さんの言うような
歌は、俺には歌えません」


羽崎くんは冷たい瞳で私の目を見つめる。



「昔から、歌が嫌いだった」


彼はポツッと抑揚のない声で呟いた。
そして、私の手に握りしめられている名刺を受け取り
次の瞬間


ービリビリッ


粉々に破れ去った名刺が風にのってどこかに飛んで行く。





「俺にもう関わるな」





羽崎は1つの言葉を残し、呆然とする私の横を通りすぎた。


彼がもう一度私を見ることはなかった。