砂糖漬け紳士の食べ方



外は、彼女の心情を表すように重苦しい雲が垂れこめていた。

昼だというのに、いつの間にか夕暮れのように暗く変わっている。




ふいに車のフロントガラスに水の粒がひとつ落ち、それから10分も置かないうちに瞬く間に雨が降り始めた。

次第にその勢いを増す雨が不快なのか、編集長はワイパーの速さを上げる。


水溜まりをタイヤが撥ねる音を聞きながら、アキは流れてゆく景色をぼんやりと見ていた。


梱包に包み直した絵を、大事に抱え直す。

エンジン音が微かに響く車内で、編集長は、ぽつりと助手席へ言葉を落とした。


「桜井、お前の責任じゃないからな」


それは明らかに彼女への気遣いだった。

しかしそれでもアキの目は、ふいに下へ落ちる。
いくら自分が慰めてもらおうと、傷がついたことには変わらない絵画が視線にぶつかる。

信号が赤になり、水の音で静まり返った車内で、編集長の言葉が染みいるように響いた。




「……なあ。何で俺が、お前をあの伊達先生の取材担当にしたと思う」



アキの目が、力なく運転席に向けられる。

編集長はハンドルを握ったまま、前だけを見ていた。




「俺があの人と初めて顔を合わせたのは、日展受賞後だ。
もちろんその時は多くのマスコミが、躍起になってあの人に取り入ろうとしてた」



ワイパーが水を避け続ける。

けれど雨はそれをさらに上回る量でガラスを汚す。



「まあ、マスコミとしちゃ当然だよな。何しろ新進気鋭の若手画家なんだから、いいネタだ」


車の天井まで、大きな大きな水音が襲ってきている。

前を照らす信号は赤なのに、それすらもよく見えない。




「俺もその中の一人として、伊達先生に名刺を渡したんだ。

その時…何て言うんだろうな、『ああ、この人は良くも悪くも繊細なんだな』って感じた」


彼の話が淡々と続けられる車内で、アキはまた外の景色へ視線を戻す。


強い雨に、歩道には人影すらなく
ただ流れていく車が、水溜りに上って雨を羽のように広げている。



「…どうしてそう思ったんですか」



潜むような彼女の言葉に、編集長はいつもと同じ声量で答えた。



「あの人、誰に対しても…特に初対面の人には紳士的だろ?

紳士的って言えば響きは良いが、あの人の場合、それは警戒心の裏返しに見えた」



信号は青く光を変えた。

編集長がアクセルを踏み込む。



「相手が自分にどういう反応をしてくるか分からない。
もしかしたら自分に危害を加える人間かもしれない。

…だったら先に、相手へ好意的なフリをしておけば、悪いようにはならないだろう。
そんな感じに見えたんだ」



「…もちろん、これは俺の独断と偏見だ。その時の記者連中は、伊達先生の物腰の柔らかさを口々に褒めていた」


だけどな、あの人、心から笑ってないんだよ。

編集長の声は、いやに車内に響く。



「モナ・リザと同じだ。顔の上半分…目を隠せば笑ってるのに、口を隠せば目が笑ってない」

「……」




アキは、その笑顔に思い当たりがあった。

編集長と二人で、伊達のマンションに面接に行った日…その帰り際、すぐに冷めたあの笑顔だ。



「若手画家という旨味を狙って取り入ろうとしても、…伊達先生はそういう上っ面を嫌うんだろう、ぞんざいな言葉で取材を断ったらしい。

それが重なって『伊達圭介はマスコミ嫌い』とかいう噂が出てきた。
…ま、当たってるっちゃ当たってるわな。
本人もそれで構わないのか、その後マスコミやらに頑なな態度を変えることはなかった。

お前が言っていた、あの贋作騒動が起きていたことも考えると、それは一層だったんだろうな」


そうですか、とも、可哀そうですね、とも、彼女は口に出さなかった。

これはあくまで編集長の感じたことであるから、全てが全て真実ではないだろうし、本当はもっと複雑な過去や事情があるのかもしれない。



ただ…。



雨に濡れた窓ガラスの鈍い光に、いつか伊達が贋作に突き立てたナイフの刃を思い起こした。


ただ彼は、まるでつまらないオモチャを存外に扱う子供のように、無表情かつ無慈悲に絵を引き裂いていた。

その切っ先は少しも迷うことなく、『自分と同じ絵』を簡単に殺していたのだ。





「…あの人の前では、調子良い上っ面はすぐにばれちまう。

だったら、お前みたいな素直な人間をぶち当てればうまいこと行くかもってな」



はは、と彼は乾いた笑いを漏らした。

何故この時に、取材担当を彼女にした理由を話したのだろう。

編集長なりの励ましなのか、それとも心情の吐露なのか、アキには分からなかった。



これが嘘なのか本当なのかも分からない。


だが、伊達がアキを合格させたのは「自分の絵を好きだと言ってくれた」という、実に子供じみた理由は

確かに編集長の言うとおり、伊達圭介は「良くも悪くも繊細」なのだということをありありと裏付けしているかのように思えた。