青いキャンディーをひとつ食べれば大人になって
赤いキャンディーをひとつ食べれば、若返る。
それは幼い頃に見た、あのアニメと同じようなキャッチコピーだった。
怪訝な視線を向けるアキの目の前で、伊達がふたを開ける。
途端に広がるのは、あの時と同じ匂い。
リビングの空気まで染めてしまうような、甘くて、華やかで、官能的な香り。
箱に詰まっているのは、あの不思議なキャンディーとはまた違う鮮やかな紫色ばかりで
伊達はそれをひとつ、手にとった。
砂糖で固められた紫色のスミレは、彼の掌の上で見れば、天然石のような密かな艶めきを見せた。
「…じゃあ、これ1個食べれば、年齢差が縮まるんですか」
伊達を恨めしげに見上げるアキへ、その答えの代わりに、彼の唇は緩やかな半円を描く。
「そうだよ。…口、開けてごらん?」
1粒の『薬』がそっとアキの唇へ押しあてられ、彼女は惰性で、無防備のまま自分の口を開いた。
口に入れれば、カリリとした固い感触が歯に抵抗する。
たった1回。
スミレの砂糖漬けを1回噛み締めるだけで、花びらそのものを噛んだような芳香が口の中に満たされた。
甘い、と思う間はなかった。
砂糖の衣が舌の上でゆるり解け始めたその一瞬、彼女の唇は伊達に奪われた。
薄い唇の皮膚が重なったリップ音は甘く、切なく、あっという間にアキの思考を固める。
慌てて彼の胸板を押し、抵抗しようとするも、伊達はそれを許さなかった。
彼の前髪がさらり揺れる。
今なら隠されていた切れ長の目をはっきりと視認できるほどに、至近距離で。
彼の薄い唇が、ゆっくりと彼女を食むようになぞる。甘い愛撫。
ふ…、と漏れ落ちた彼の荒い息遣いに、彼女はどうしようもなく恥ずかしくて
まるで体中の血液が固まってしまったかのような錯覚を覚える。
ようやく唇を解放した伊達が、ニイと笑ってみせた。
「ね…?年の差なんて、無くなっただろう」
口の中にあったスミレを飲み込むことも忘れて、ざらりとした砂糖の感触だけが舌の上に融解していく。
目の前に広がるのは、くしゃくしゃな黒髪。それと、石鹸の匂い。
スッとすがめられた伊達の目に見つめられる。
じわりと彼女の目頭を潤ませたのは、なにも悲しみのせいじゃない。
ずっと渦巻く感情の正体を彼女自身すら知らないのに
それを言葉に紡ぐことなんかは当然出来ない。
伊達はそんな風に困惑する彼女の顔を上から見下ろし、何が嬉しいのか、また一つ笑い声を溢した。
「あっかんべーってして」
咄嗟に彼女が伊達を見上げたが、彼はにっこりと笑むだけだった。
「べーってしてごらん」
べっ、と舌を大きく出す彼につられ、彼女も舌を伸ばしたが
それはあっけなく伊達自身の舌に掬われた。
もはや抵抗の力すら残っていなかった左手が、彼に甘く握られれば
おろそかになった砂糖漬けの箱が、彼の手からそのまま真っ逆さまにリビングの床へと落ちて行った。
バラバラとスミレが床へ散らばっていく音と、そこからむせかえるような芳香が立ち上るのはほぼ同時だった。
アキは、落ちた箱を見ようとしてももう叶わない。
咄嗟に忍び込んでくる彼の舌に、驚き、逃げるも、彼は執拗に彼女の舌を吸い上げてくるのだ。
まだ飲み込んでいなかった砂糖漬けを、彼の舌がざらりと奪っていく。
「ん…、さすがにあまいな……」
奪うだけならまだしも
歯茎も歯列も、甘く柔らかく無茶苦茶になぞられる。
反論が、意識が、全て伊達に飲み込まれていく。
先ほどまでの、皮膚表面を愛撫するような口付けとは性格を変えた、深い、深い、もの。
もう口に砂糖漬けは残っていないのに、それなのに彼からの口付けは深さを増していく。
伊達さん、ちょ、っと、待って、下さ、い
そんな言葉は全部全部、甘い声に変わっていった。
リップ音はもう聞こえない。
その代わりに、粘膜と粘膜が触れ合う濃厚な音がお互いの耳を濡らしていく。
咄嗟に鼻から漏れてしまった彼女の甘い声。
それに気を良くした伊達が、一層彼女へ唇を押し付ける。
手足が痺れる。息が出来ない。
なのに、それがもはや快感に近いものに変わっていることを彼女自身も知らない。
どろり。
頭の中も、舌も、体も、思想も、理性も
何もかもが蕩け堕ちてゆく幻想。
融解、とでもいうんだろうか。この感覚は。
甘いものばかり好む彼は、唇も、舌も、言葉も、全て甘い砂糖漬けそのもののようだった。

