編集者として込めた謝辞に、本当は彼女の本音も少し混ぜていた。
言葉にウソはない。決して。
この人に取材出来て、本当に良かった。
この人に片想い出来て、本当に幸せだった。
伊達はやっぱりいつもと変わらぬ無表情のままで「これで最後だね」と抑揚なく言った。
「…雑誌が出来てからは、おそらく編集長の方からお伺いする形になるかと思いますので」
じゃあこれ、と伊達はテーブル上に置いていたスミレの砂糖漬けを彼女へ追いやった。
「君が来た時くらいしか食べなかったから、まだ半分以上残っているんだ」
もし嫌じゃなかったら持って帰って、と彼は付け加える。
厚意を受け、アキは素直にそれを鞄とともに抱えた。
既に午後10時を過ぎていた。
そうしていよいよ彼女が「もう時間が遅いから」とソファから立ち上がりかけたところで
何かがアキの体をソファへ縫い止めた。
最後くらい「あの子は良い子だった」という印象を彼に刻んでいたかったのに、どうしても腰があげられない。
「もう最後だから」という欲は、彼女のカカトを重く踏みつける。
先ほどようやく自覚した欲が、どうしても消えてくれないのだ。
彼にきちんと別れを告げるために、
「ありがとう」と伝えるためだけに来たはずだったのに、
彼の顔を見てしまったら、心はそれと真逆を指し示していく。
彼女の細い指が、膝へ抱えたままの砂糖漬けの箱を強く掴む。
「…あの、伊達さん」
伊達の視線がアキに下された。
「お…お願いがあるんです」
心から直接絞り出すような力ない声は、リビングの暖かい空気でほわりと消え去っていく。
「えーっと…編集者としての仕事は完了した訳で、
それで、一人のファンとしてですね…あの、サイン…頂けたらな、って」
苦く笑う彼女に、思いのほか彼は簡単に頷き「どれに書けばいいの」と手を出してきた。
とは言っても、これは突然の思いつきだ。
鞄を焦って探すも用意などなく、サインを残すにふさわしいモノは持ってきていなかった。
「じゃあ、…ええと…これにお願いします」
仕方なく彼女は、自分の愛用している手帳を彼に差し出した。
「いいよ、ちょっと待ってて」
そう言って、伊達はリビングから姿を消した。
数分後にアキへ返された手帳には、サインらしく崩した文字ではなく、楷書で『伊達圭介』ときっちり書かれていた。
これでは、この手帳の持ち主が彼のようだ。
「…伊達さん、サインらしくないですよこれ」
「仕方ないだろう。サインなんて求められたことなかったんだ」
「ふふ。ありがとうございます」
手帳をしまいこみ、そして再び鞄のファスナーを閉めて……。
だけどやっぱり、あの欲は彼女の中にくすぶったままだった。
そう、最後。
これで個人的に会う機会はなくなってしまう。
もう二度と。
アキは無意識に、奥歯を噛み締める。
喉の奥にずっとあった苦味は、彼へ感謝を告げれば消えるはずだったのに
それは一層、ひどくなっていた。
「あの、伊達さん…」
「何だい」
「最後なので、握手して頂けますか」
言った言葉を彼女が後悔し始めるよりも早く、伊達は簡単に自らの右手を彼女へと差し出した。
「はい」
「あ…ありがとうございます…」
握られた手はすんなりと冷たくて、けれどやはり彼女とは違って骨々しく大きかった。
しかし最後だからと伊達へ握手を求めた事が、この瞬間になって強い後悔に変わる。
冷え性に近い彼の手は、アキにあの夜のことを思い出させた。
「私の前でなら泣いていいよ」と、そっと彼女の目尻に触れてきた、あの時と同じ体温が再び皮膚の上に乗る。
それだけだったのに、アキの体の真ん中から、欲がどうしようもなく沸き上がってきた。
泣きたくなるような衝動が、彼女の体中を内側からノックし始める。
思うより先に
感情は、溢れた。
「…伊達さん…あの…最後、なので…」
理性より先に
本能が、こぼれた。
「1回だけでいいですから、…ぎゅってしてください…」

