「お前、部活に復帰しないか」
 橋本が和樹に声をかけてきた。和樹の手をとりひっくり返す。
 手にマメができているのを撫でて目を細める橋本。

 元の木阿弥。
 橋本には、前と同様容赦ない走りこみを課せられる。
 時折橋本が自分をチラ見する。今度は逃げるなよ。そう言っている目だ。
 もう、逃げねえ、けど……。
 橋本が、和樹の九周目突入を確認して安心した途端、和樹はまたもや脱走をはかった。
 出入り口から出て行く和樹の後ろ姿が見えた。
 「アオ! 戻れ!」

 戻ってきた。
 強引に碧の腕をつかんでいた。
 二人に視線が集中する。
 スキあらば逃げようと抵抗する碧。
 「手、放せよ」
 碧の意外な態度に、体育館で部活をしていた全員が注目する。
 それに気づいた碧は真っ赤に顔を火照らせる。
 しかも、今自分は和樹にしっかり手を掴まれている。
 「逃げちゃダメだ!」
 和樹には碧しか眼中にない。
 「うっせ!」
 碧も開き直った。
 開き直った碧に橋本が、手にしていたラケットをボトリと落とす。
 いや、橋本だけでなく数人が手にしていたものをポトリと落とす音があちこちに。
 ようやく橋本が、
 「お前、うちのクラスの……。こんなキャラだっけ?」
 「こんなキャラなんです」と和樹。
 強引に碧の手を橋本に差し出す。
 あくまでも抵抗して手を広げない碧。
 「開けろよ、見せてやれよ!」
 「やだ! 変態、ドスケベ!」
 「ドスケベだぁ?」
 10パーセントあった心の疚(やま)しさを突かれて、そのスキに碧は、スマッシュのときのシャトルのスピードで逃げていった。

 『ばおばぶ』は7時閉店だ。
 裏口を知らない和樹は、店の入り口を叩いた。
 塚田父がドアを開けた。
 和樹の訪問を『どなって』告げると、階段を下りてくる音がして、碧が現れた。
 いつも無表情に輪をかけた仏頂面だ。
 「女は、もっと愛想良くしろってんだろ!」と塚田父が帳簿で碧の後頭部を叩く。
 碧は塚田父に回しゲリをお見舞いする。
 ……なんだ、『いつも通り』だ。
 「すみませんねえ、母を早くに亡くしたんで、こんながさつなヤツになっちまって。気を悪くしないで、よろしく頼むな」
 「はい、喜んで!」
 「ふざけんな!」
 碧のパンチが和樹の左頬に、きれいに決まった。

 体育館の床に足を投げ出して座る塚田碧、塚田父、和樹。
 塚田父が気を利かせてどこうとするのを和樹が止めた。
 このポジションでないと、碧がホンネを言わない悲しい現実が、そうさせた。
 『城壁』が、二人のコミュニケーションをかろうじて成立させてくれるんだ。
 「オレは、お前が学校の部活に復帰すれば、お前の学校生活が変わると思ったんだ!」
 「だから、それが余計なお世話だっつーの」
 「お前、自分をもっと出せばいいんじゃねーの?」
 「そういうのは……」
 一度碧が言葉を飲み込む。
 「……何度も経験済みなんだよ。そのたびに後悔すんだよ」
 沈黙……。
 言葉を必死で探す和樹。
 だが、この沈黙にひとたび身を委ねると、案外自然に言葉が出るものだ。
 「お前の味方はいる。信じろよ」
 「誰を?……裏切るかも」
 「オレは、裏切んねえ」
 「信じらんねえっつってんだろ」
 「あとはさ、お前が、オレを信じるかどうか、だかんな」
 碧が瞬時に立ち上がる。
 手にはラケット。
 あれ、いつの間にか、『城壁』はコートでラリーしていた。
 身の危険!
 一瞬、碧がラケットのグリップの方を和樹めがけて振り……!
 寸止め!
 目を見開いたまま硬直する和樹。
 「なんで、よけない?」と碧の怒った表情。
 そのスピードでよけられるか!
 ああ、碧の顔が、学校モードになっていく……。