再会

しばらくして、カンナは気を取り直し、ぐずぐずと改札口に向かった。
改札口を出て、方角も解からず、人混みにもまれながら、足のむくままに歩いて行くと、ビルの一階の喫茶店の前に出ていた。はめ込みのガラスの外から中が見える。ガラスの中は、花が咲いたように美しかった。白い腕が肉感的に肩からあらわに伸びている。その腕を支えている胴体には、赤や黄や黒の模様で、お花畑のようになった布が、ふわりと巻きつけられている。真新しいパレットのようなテーブルには、色とりどりの食器が並んでいる。カールの効いた金髪の娘の横には、黒々とした髪の青年が寄り添うように居る。そんなカップルたちであふれ返っている室内は、花園のようであった。カンナはその花園の中にそっと入って行った。冷気が首筋を撫でた。空いた席にカンナはそっと座った。一口のコーヒーで喉を潤すと、朝からの緊張がすっと解け、目を閉じると現実の世界が遠ざかって行くような気分になった。
カンナは夢を見ていた。カンナはラベンダーの花咲く丘陵に、風に髪の毛を靡かせながら座っていた。靴は赤く、ドレスは真っ白だった。そこへ白いTシャツと白いパンツをはいた男性が背後から現れて、カンナの隣に座った。カンナは横を向いた。明也が笑いかけながらカンナを見ていた。二人は自然に頬を寄せ、子供のように軽く口づけした。まるで、体がとろけだしそうな瞬間だった。
「ケーキをお持ちしました」
ウエイターの声で、われに返った。蝶ネクタイを付けた、細身で長身のボーイが、いろいろなケーキをのせた大皿を差し出していた。カンナは身震いした。美しい!
一瞬の間に見た夢といい、身震いしそうなほど端麗なボーイに会ったことといい、すべては幸先の良さを暗示している。カンナは、明也をあきらめて帰ることはやめ、もう一度電話してみようと思うのだった。
周りを見渡せば、決して若いカップルばかりではない。洒落た服に身を包み、品を作って中年の男性に語りかけている女性は、明らかに五十前後だ。カンナは自信はなかったが、アラフォーでしょう、と、明也が言ってくれた甘い言葉を頼りに、せいぜい若い気持ちを持って明也に臨もうと思うのだった。
だが、いざ、電話しようとなると、ホームで倒れそうになったショックがよみがえり、指が震える。二回、三回かけても出てくれなければ、と思うと、脳貧血が来そうだった。そこで又ぐずぐずと二時間を費やしてしまった。極彩色の蝶が、男性と言う樹に止まってひらひらひらひらと羽を動かせているような、甘く美しい光景の中にあって、カンナは孤独だった。孤独であったけれども、勇気づけられた。美しい蝶に化けて男性の樹液を吸うために、必死に着飾っている可憐な女性たちの中で、カンナもますます目覚めていく。美しくなって、蝶のように男性の周りをひらひら舞ってみよう。カンナは化粧ポーチを取り出し、唇をくっきりと描いていた。
アラフォー、アラフォーとカンナは心の中で叫んだ。明也さんにはアラフォーに見えるのだわ。自信を持たなければと、カンナは呟いた。
カンナは勇気を出して、電話をかけた。
電話はすぐに留守番電話につながってしまう。明也の声は聞けなかった。
ここは、落ち着いて時間をあけてからかけなければならないと、すぐに再ダイヤルしそうになるのを、カンナは抑えた。それでも二十分ともたなかった。葛藤しながら、二十分待ち、三回かけた。しかし、明也の声は聞けなかった。
カンナは明也からもらった名刺をじっと眺めた。眺めれば眺めるほど、明也の顔や姿が脳裏を駆け巡る。甘い言葉も耳元でよみがえる。
会いたい、と思ったカンナは、スマホを出して、会社への道順を調べ始めた。
会社は「御徒町」を降りたら、駅のすぐ近くにあると解った。はやる心とは裏腹に、カンナはのろのろと立ち上がり、会計を済ませた。
明也の会社は、古びた雑居ビルの一階にあった。そこだけ新しく改装した入口のドアを押して中に入ると、カウンターの向こうでパソコンに向かっていた女性が顔をあげて「いらっしゃいませ」と言う。
その女性が、まだ若くて三十そこそこに見える。目がぱっちりとしていて、長いストレートの髪をやや茶色く染めている。古いビルの中にいるには惜しいような美人だ。
カンナは動揺した。が、気を取り直し、
「社長さんはいらっしゃいますか?」と聞いた。
「どちらさまでしょうか」と彼女は言う。
「山辺カンナと申しますが」
「ちょっとお待ちください」
そう言って、女性は次の部屋に入って行った。
女性はすぐに返ってきて、カンナにソファーに座るように勧めた。
明也もすぐに出てきて、
「いやぁ、ごめんごめん」と笑いながらそばまで来た。
カンナは、黙って頭を下げた。
「ちょっと、待ってて。着かえてくるわ」と、明也は奥に入って行った。
女性は、カンナにお茶を出した。湯呑をテーブルに置くとき、女性は、カンナを値踏みするような目つきで見た。カンナは恭しく頭を下げた。
明也が作業服のような上張りを脱いで、しゃれたジャケットを着て出てきた。
「ちょっと、『マドンナ』に行ってくるわ」と、明也は女性に声を掛けた。
「行ってらっしゃいませ」と、女性はパソコンから顔をあげて答えた。その時カンナを見た目が、鋭く光った。                                                                        カンナは、この女性が嫉妬しているのではないかと、明也の素行を疑ってみる。けれど、そんなことなら名刺なんか渡しはしないだろうと思い返す。
外に出ると、
「ごめんな、カンナさん。お得意さんの急な訪問を受けて出られなかったのだよ」と明也は言った。
明也は、つい二三軒先の『マドンナ』という喫茶店にカンナを案内した。
「新幹線はどうだった?混んでいたとか、なかったかな?」
「指定席を取って来たのですけど、二人掛けをずっと一人で乗って来ましたわ」
「それはよかった。退屈ではなかったかな?」
「退屈なんて・・・。ずっと気持ちが張りつめてましたもの」
「ごめんごめん、本当に今日は悪かった。不意に上得意さんが、高崎から来てね。用事のついでに寄ったらしいのだけど、サンプルや製造過程など見学したいと言うので、保谷の工場まで案内していってたんだ。つい今しがた帰ってきたところなんだ。その人は、品物を置いてくれそうな店をたくさん紹介してくれていたのでね。突然でも、案内しないわけにはいかなかったのだよ。ごめん、この通り」と、手を合わせてカンナを拝むようにした。
「大丈夫ですよ、そんなことなさらないで」と、カンナは穏やかに言った。でも、ちょっとどこかに隠れて、電話くらいできなかったのかしらという疑念は生じた。しかし、そんなことにこだわってはいけない、今大切な人が目の前にいるということが、最大の幸せなのだからと、カンナはとろけだしそうな優しい目つきで明也を見た。
「カンナさんは、思っていた通りの美人だ」と、明也はいきなり言った。
「お上手。そんなことで帳消しには出来ないのだから」と、カンナはキッと睨み付けるふりをした。
「申し訳なかった。ほんとに、ほんとに、この借りは、今夜きっとお返しするから」と、明也は茶目っぽく笑っている。
他愛ない人と思いつつ、カンナの気持ちはすっと和んで行った。
「会社は五時に閉めるから、それまで、ホテルで待っていてね」と言って、明也は携帯で、ホテルを予約し始めた。
「このホテルは、東京駅から歩いて五分だから、すまないが、バックして東京駅に戻って、このホテルで待っていてね」と、明也はメモ用紙にホテル名と電話番号を書いて渡した。
「なるべく早く行くよ」と明也は言って、カンナを改札口まで送り、会社に帰って行った。
吊り革にすがって電車に揺られながら、やっぱり電話をくれなかったのは腑に落ちないと、理由を考えてみるのだけれど、解らなかった。いざとなると嫌になったのか、いきなりホームで私が男を連れて下りてくるのに遭遇するとでも思ったのか、あの、事務の女の子と、できたのか、それも、昨夜とか、などと思いを巡らすが、そのどれも、明也にふさわしくないように思った。結局、あの人は単純な人で、お得意さんを案内するのに舞い上がっていたのだろうと結論づけた。