カンナは絶望

いよいよ明也に会える日がやってきた。カンナは十二時に東京駅に着けばよかった。都内を営業して回っている明也が十二時にホームまで来てくれることになっていた。カンナはもう四時には目が覚めてしまった。睡眠不足はお肌の毒だと無理に五時までベッドにいた。明也に年を感じさせたくなかった。若くいなければ、明也に抱いてもらえない。しょっぱなから、幻滅を感じさせたくなかった。寝られなくても、横たわっているだけでも疲労は回復すると聞いたことがある。無理に横になっていた。けれど、期待はどんどん膨れ上がり、寝ていることができなくなってしまった。カンナは起き上がると浴室に行き、シャワーで体の隅々まで洗ったのち、髪の毛を念入りにブローして、濃いめの化粧をした。鏡を見て満足できるまでに、二時間かかってしまった。カンナは慌ててマンションを後にし、新神戸へと向かった。
 新神戸駅に入ると、すべての乗客が、皆幸せそうに見えてくる。美しく着飾った女性たちばかりが目について来る。そっけないジーンズ姿の若い女性とか、ナップザックをだらしなく背負った年配女性の姿は目に入らなく、自分より少し若いかと思われる、流行の洒落た洋服を着た女性ばかりが、目に飛び込んでくる。この人たちは、どこへ、何をしに行くのだろうと推測し、皆が、秘密のいとしい男に逢いに行くように見えてくる。美しく着飾ったあなたたち、自分に見合う力で、人生を謳歌してください、私もそうしているのですから、と、心の中で呟いてみる。あの人たちも幸せになり、自分もそれ以上に幸せになりたいと、胸を高鳴らせた。そして、この美しい女たちの誰よりも、今明也に逢おうとしている自分が一番幸せなのだと、誇示したい気持ちになった。
カンナは暗いトンネルの中でも、トンネルの切れ目の一瞬で通り過ぎる明るい景色の中でも、幸せだった。
 間もなく列車は大阪に着いた。大勢の人が乗り込んできた。カンナは、明也が大阪でお得意先の店をまわっていることを思うと、あまりよく知らない大阪でさえ愛しいものに思えてきた。テレビでよく見る道頓堀や心斎橋の商店街の人混みの中を、スーツ姿の明也が歩いている姿を思うと、いとおしく抱きしめたいような気持になった。その大阪から乗り込んできた乗客がみんな、いとおしく思えてくる。カンナはせわしく乗り込んでくる乗客を眺め、自然と顔をゆるませていた。
 列車は、希望に満ちたカンナを乗せて、あっという間に京都に近づいた。東寺の五重塔がやさしい姿で雲の中に現れてくる。なぜか、すべすべした美しい肌の千里の姿が、東寺の塔のヘリに現れた。それは塔にも負けない大きい姿だった。カンナは、千里の奥深く秘められた悲しみ、満たされない悲しみを知った気がした。さほど飢えていない自分がチャンスをつかみ、美しい千里がチャンスをつかめないことに対して、申し訳ない気がした。
 千里さん、あなたも早くいいお話しを聞かせてね、と、心の中で呟き、千里の幻影にほほえみかけた。
 浜松を過ぎる頃には、千里の影のことはすっかり忘れ、明也との逢瀬の事で頭が一杯になった。列車の出口を出た途端、明也が待っていてくれる姿がそこにある。その時自分はどんな顔で明也を見るだろうか。明也が微かな笑みをたたえて、近寄ってくる。そして、静かにハグしてくれる。その時自分は微かにふるえるだろう。整髪料の微かなにおい。控えめにつけてきた自分の香水の匂い。それらが、二人の逢引を優しく包む。そして、明也が案内するところに自分は従っていく・・・。
 目がくらむような、甘美な空想に浸っている間にも、列車は進んで行く。なにか、車内がざわめいたと思うと、反対側の窓に、富士山がくっきりと見えているのだった。
 美しいその姿に触れて、ますます幸先がいいと思うのだった。
 富士が見えなくなった時から、カンナは化粧を始めた。隣の席が空席になったのをいいことに、念入りに髪を整え、手鏡を覗き込んで化粧を直していった。
 やがて新横浜に着き、下り支度を整えると、品川がすぐに来た。カンナは待ちきれず出口に行き、並ぶと、今か今かと到着を待った。
 ようやっと、列車は東京駅のホームに着いた。カンナは三番目に下り立った。明也がカンナを見つけて近寄ってくるはずだった。だが、カンナがどんなに目を凝らしても、明也の姿が見当たらなかった。カンナは虚を突かれ、何がどうなっているのかわからなかった。そんなはずはないと、視線を遠くにやった。けれど、明也らしい姿は見当たらなかった。そのうち、同じ列車から降りた人は、ほとんど、ホームにいなくなり、次に到着した列車の乗客でホームが一杯になった。そしてまた、その人たちもホームから去って行った。見通しのよくなった長いホームを前、後ろと見渡したが、明也らしい人の姿はない。茫然となったカンナは事態が呑み込めず、ホームの端から端へと明也を期待して歩いて行った。しかし、明也はいなかった。
 カンナは動揺する心のまま、携帯を取り出し、電話を掛けた。いくら呼び出し音が鳴っても、明也は出てこなかった。得意先で営業が長引いているのかとも思い、しばらく時間をおいてまたかけた。しかし応答はなかった。
 カンナは真っ青になり、目がくらみ、階段の壁にしがみついて、倒れそうになる自分に耐えていた。