体を磨くためにエステへ

翌日カンナは千里に案内してもらって、エステサロンに行った。柏木が「アラフォーでしょう」と言ったのが、気になっていた。普段から、十歳は若く歳を言われていたけれど、五十七歳で、アラフォーはきつい。亡くなった夫には自然体で接していたけれど、柏木には、期待に添えるような肉体でありたいと思った。それを見透かすように千里は聞いてくる。
「カンナはボディもするでしょ?」
「するわ。初めてのことで、面映ゆい気もするけど、アラフォーでしょうなんて言われたら、少しでも綺麗になりたいの」
「羨ましいなぁ。私には、まだ白馬の王子様が現れていないから、今日はフェイスだけにしとくわ」
「千里は、すべすべの肌をしているのに、それでも、ちょくちょくエステに通っているのは、どういうわけ?」
「それは、主人とうまくいかなくって、いらいらするでしょ。そう言うときに、ストレス解消に行くのよ」
「千里はそれこそ正真正銘のアラフォーなんだから、ぼくちゃんたちが大学に入ったら自由にしないと、余りにももったいない」
「そのためにも美を保っておかなくっちゃって気もあるわ」
「ボディまで頼んだら、高くつきそうねえ。でも、この年になって、一目惚れしてしまったら、やっぱり綺麗にしないと駄目だものねえ」
「カンナさん、お高く尽きますわよ…。…恋は」
「何?今意味ありげに言葉が詰まったわね。「恋は」、の前で。恋の前に「老いらくの」ってつけたかったんじゃない?」
「カンナはまだいけるわよ。昔なら『老いらく』、今は『恋らく』」
「何よ、その語呂合わせ」
「ほら、もう着いたわ。ここよ」と言って、千里は、居留地のビルの前で立ち止まった。
 二階を見上げている千里の立ち姿をちょっと脇から眺めたら、ほっそりとした体に、イタリア製の薄物の生地でできたワンピースが、体になじむようにまとわりついて、モネの絵を見ているように美しい。どうしてこんな美しい人が、夫とそりが合わなくって、つらい人生を生きているのか、理解できなくなってくる。千里に比べたら、自分は三流か四流だ。明也が二人を見比べたら、千里をとるに違いない。いや、明也のみならず、世の男性は全部千里に靡くだろう。
 カンナはふくらんでいた気持に水をかけられたようになって、エレベーターに乗り込んだ。
 一歩足を踏み入れると、そこは別世界のように社会から隔絶された静謐な世界だった。顔にも腕にも一点のシミもないつるっとした蝋人形のような肌をした、一見したところでは玄人風に見える中年の女性が応対に出てきた。千里はカンナを紹介した。女性は、千里に丁寧にお礼を言うと、千里にはすぐさま更衣室の方に行かせ、カンナだけを別室に案内した。慇懃にお茶のサービスをし、エステのコースをいろいろ説明し始めた。その時始めてエステが高いものにつくことに気付いたのである。カンナは言葉巧みに勧めてくる三十万円のコースを、かろうじて断って、十五万円のコースにした。明也に最初に会うときだけは、綺麗にいたい。その思いで全身エステを希望したものの、あとあとまでお金が続かないのが解った。だから、明也に会うまでに、二日おきに三回全身のエステを受けることにした。そして、それで、もうエステはお終いにしようと思った。
 裸同然のような姿で横たわったカンナに、歯の浮くようなお世辞と、体に塗られている得体の知れない物質の由来や効能が語られ続け、合間合間にカンナの趣味や家族のことが聞かれたりしたが、カンナはそれらの言葉を、遠い所の音楽のように聞き流し、心の中ではずっと明也との逢瀬の夢を見続けていた。それはそれで、高いと言うことを忘れ去っていれば、しっとりと流れる甘美な時間ではあった。
 頭皮から足の先まで綺麗になったはずだと、鏡をのぞき込んだとき、それ程変わってもいないのに少しがっかりしたが、現実世界を忘れて、明也に抱かれている夢を見続けられた時間を思うと、満足だった。
 カンナは、先に終わった千里が、大丸で買い物をして待っていると聞かされて、急いで、千里の後を追った。
 千里に携帯をかけると、一階の案内所まで下りてきてくれ、大丸を後にして、二人は居留地にある、とある喫茶店に入った。
「千里さん、ごめんね。私、勧められたコースはちょっと高くって、頼むことができなかったわ。言われたものの半額の十五万円コースしか頼めなかった」
「いいのよ、そんなの。それで、私がどうこうではないのよ。それよか、気持ちよかった?」
「それはまあね。してもらっていることよりも、空想している方が夢みたいだったわ」
「あら、東京の男の人のことを思ってたのね」
「他に思うことがないもの。空港の出会いから、もう、私の心は、火がついてしまったようになってしまったの」
「そんなのおかしいわ。私にはわからない。人を好きになるって、その人の素性とか、性格とか、もっといえば、どれくらいお金を稼げる人だろうかだとか、そんなことがわかってからじゃないの」
「私も今まではそう思っていたけど、今度ばかりは突然情熱の炎が燃えさかってしまったっていう感じなの。明也さんのことを思うだけで、体が熱くなってしまう」
「羨ましいなぁ、そんなにいい人が現れるなんて・・・。そんな経験私もしてみたいわ。東京から帰ってきたら、逐一みんなに成り行きを報告してよ」
「ええ、それはもう。何の隠し事もなく自分の恋の話をするということで、私たちは団結しているのだもの。どんなことだって聞いてもらうわ」
「それで、いつ行くんだっけ?」
「全身エステをあと二回してもらって、その後だから、再来週くらいになるわ」
「綺麗になるわよ。背中とか、二の腕とか綺麗になったら、カンナなら十分アラフォーに見えるわよ」
「年は明かさないわ。五十七歳なんて言ったら、逃げちゃうに違いない。殿方は自分が六十歳でも、五十七歳の女なんて、女とも見てないと思うもの」
「そうよ、そんなものよ。そんなものに決まってるわ。私たちはみんなカンナの味方よ。カンナを応援するからね」
「ありがとう。千里も早く白馬の王子様を見つけてね」
「無理のように思うけど、希望だけは捨てないわ」
 と言いながら、千里はなんかしおれたような笑みを浮かべた。
 カンナはそれを見て、ふっと、自分の愚かしさに気付いた。
「千里、私たち年甲斐もなくおかしげなことばかり言っているわね。第三者がこの話を聞いていたら、あほうなおばさんとあきれるよね」
「そうよ、その通りよ」と言って、千里は明るさを取り戻して、声を出して笑った。
「ともかく、頑張ってきて」と千里は言い、二人はそれぞれの帰路についた。