カンナは一直線にマンションに帰った。静かで誰にも邪魔されない所で、電話をかけたかった。
柏木明也にかける最初の電話。マンションの鍵を開け、ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、それをおもむろに、リビングのテーブルの上に置いた。
カンナは軽やかなワンピースを脱ぎ、体を締め付けているブラを取り、部屋着のムームーに着替えた。
手を洗い、口をすすいでリビングに戻って来、テーブルに手を伸ばし、携帯電話を取ろうとして、手を引っ込めてしまった。胸が動悸して波打っている。カンナは頬に両手を当てて、テーブルの回りをぐるぐると三回廻った。そして、又手を伸ばす。また、胸が高鳴り、手を引っ込めてしまった。今度は祈るように両手のひらを合わせて、ソファーに座り込んだ。それから、また、立ちあがって、テーブルに手を伸ばし、今度は携帯電話を取った。
発信音。心臓が高鳴る。繋がったと思うと、「ただ今電話に出ることが出来ません。ご用の方はピーという音の後にメッセージをお入れ下さい」という声が聞こえた。
カンナは拍子抜けし、携帯の蓋を閉めて、ソファーに投げ出した。
カンナは気をまぎらわせるために、ベランダに出て花に水をやった。
私は一体何をしようとしているのと、花に問いかけたが、答えはない。自分は思慮深い人間だと思っていたけれど、本質は軽い女なのだと気がついた。わざと伝票を落として、男を誘惑したのだ。だけど、いい男だったなあとカンナは柏木明也の姿形を思い出して、身震いした。如露が大きく揺れて、水が的をはずれ、ベランダに落ちた。
そこへ、携帯の音が大きく響いた。明也さんだと心で叫んで、サンダルを脱ぐのももどかしく、携帯に飛びついた。
「カンナさん?」
「はい」
「柏木です。さっき電話くれたよね」
「ええ」
「ごめん、こっちのお得意さんと話してたものだから」
「そうでしたの? 私嫌われたかと思って、落ち込みそうになったわ」
「カンナちゃんを嫌うわけはないでしょう。昨日あのまま帰りを遅らせたらよかったのにと、後悔しているのに」
「ほんとう? 私も一晩中明也さんのことばかり考えていたわ。今度、神戸には、いついらっしゃるの?」
「全国のお得意さんを、僕ひとりで廻っているからね。でも、神戸と大阪は毎月行くから、来月の初めに会えるよ」
「九月の始めね。待ち遠しいわ。それよか、私が東京に行こうかなあ」
「東京に来る? おいでよ」
「いいの? いつ?」
「いつでもいいよ。カンナの都合のいい時で」
「じゃあ、じゃあ、再来週でもいい?」
「いいよ。来る前日に電話ちょうだいよ」
「ええ、電話するわ。それじゃ、約束よ」
「OK」
カンナは電話が切れたあと、放心状態だった。その割には、電話中は頭がくるくる働いて、会う日を決めるときは、会う前にエステもいきたいし、美容室にもいきたいしと、一刻も早く会いたい気持をおさえて、再来週と言ったのだった。
カンナはこの嬉しさをひとりで持ちこたえることはできなかった。
誰かに話したかった。邦子にいうと早計だと叱られそうだった。千里では、若すぎると思った。ここは、一番大人しい穂波に聞いて貰うのがいいと思った。
カンナは間を置かず、穂波に電話をかけた。
「ねえ、聞いてよ、穂波。私ね、再来週上京して、柏木さんと会うことにしたのよ」
「ええ?もう家に帰り着いたの?そしてもうそんな約束もしたの?私ね、たった今帰り着いて、今、暑苦しいパンストを脱いでいるところなのよ」
「なにぃ、穂波、パンストを脱ぐなんて、おかしげなこと言わないでよ」
「だって、本当よ、今、脱いでいるところなんだもの」
「穂波、いやーだ。貴女は慎み深い奥さんだったじゃない。それも、れっきとした
現役真っ盛りの奥様じゃない」
「カンナが、色々聞かせるから、私もおかしくなっちゃったのよ。私も、カンナのように自由の身になりたいわ。そうしたら、ハンカチだってチケットだってルージュだって、なんだってわざとに落とせるもの」
「穂波、大丈夫なの?今家に誰もいないの?」
「大丈夫よ、私一人よ」
「貴女は四捨五入したら、まだ五十だけれど、私は四捨五入したら、もう六十よ。夫もいないし、最後のアバンチュール」
「そうね、楽しませてくれる人ではないけれど、私には一応主人がいるのだから、あきらめるわ。カンナや邦子の話を聞いてのぼせていたけれど、気を静めます」
「私は、申し訳ないけど、再来週東京に行って来ます。ごめんなさい。ひとりいい気になって、こんなことで電話をかけて。慎みがなかったわね」
「あれ、カンナ、私たちは、慎みがないから、いいんじゃない。お上品にばかりかまえている仲間だったらつまらないわよ。張り切って、行ってらっしゃい!」
「ええ、ともかく行ってみます。行って会ってから、どうするか決めるわ」
「嘘でしょ、そんなの。カンナは一目惚れで、もう、心はいっちゃってるわよ」
「そんな、でも、まあ…」
「ほら、図星でしょ。でも、一目惚れは悪くないのよ。相性がいいから一目惚れになるということも、あるんだから。パンスト脱いだらすっきりしたわ」
「また、パンスト。じゃ、早く着替えてね。東京から帰ったら、また、報告するわ」
カンナはのぼせてしまって穂波の気持を攪乱させるような電話をかけたことで、しおれてしまった。
しばらく携帯を握りしめて、テーブルに頬杖をついて放心していたが、気を取り直して花の水やりを続けた。
柏木明也にかける最初の電話。マンションの鍵を開け、ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、それをおもむろに、リビングのテーブルの上に置いた。
カンナは軽やかなワンピースを脱ぎ、体を締め付けているブラを取り、部屋着のムームーに着替えた。
手を洗い、口をすすいでリビングに戻って来、テーブルに手を伸ばし、携帯電話を取ろうとして、手を引っ込めてしまった。胸が動悸して波打っている。カンナは頬に両手を当てて、テーブルの回りをぐるぐると三回廻った。そして、又手を伸ばす。また、胸が高鳴り、手を引っ込めてしまった。今度は祈るように両手のひらを合わせて、ソファーに座り込んだ。それから、また、立ちあがって、テーブルに手を伸ばし、今度は携帯電話を取った。
発信音。心臓が高鳴る。繋がったと思うと、「ただ今電話に出ることが出来ません。ご用の方はピーという音の後にメッセージをお入れ下さい」という声が聞こえた。
カンナは拍子抜けし、携帯の蓋を閉めて、ソファーに投げ出した。
カンナは気をまぎらわせるために、ベランダに出て花に水をやった。
私は一体何をしようとしているのと、花に問いかけたが、答えはない。自分は思慮深い人間だと思っていたけれど、本質は軽い女なのだと気がついた。わざと伝票を落として、男を誘惑したのだ。だけど、いい男だったなあとカンナは柏木明也の姿形を思い出して、身震いした。如露が大きく揺れて、水が的をはずれ、ベランダに落ちた。
そこへ、携帯の音が大きく響いた。明也さんだと心で叫んで、サンダルを脱ぐのももどかしく、携帯に飛びついた。
「カンナさん?」
「はい」
「柏木です。さっき電話くれたよね」
「ええ」
「ごめん、こっちのお得意さんと話してたものだから」
「そうでしたの? 私嫌われたかと思って、落ち込みそうになったわ」
「カンナちゃんを嫌うわけはないでしょう。昨日あのまま帰りを遅らせたらよかったのにと、後悔しているのに」
「ほんとう? 私も一晩中明也さんのことばかり考えていたわ。今度、神戸には、いついらっしゃるの?」
「全国のお得意さんを、僕ひとりで廻っているからね。でも、神戸と大阪は毎月行くから、来月の初めに会えるよ」
「九月の始めね。待ち遠しいわ。それよか、私が東京に行こうかなあ」
「東京に来る? おいでよ」
「いいの? いつ?」
「いつでもいいよ。カンナの都合のいい時で」
「じゃあ、じゃあ、再来週でもいい?」
「いいよ。来る前日に電話ちょうだいよ」
「ええ、電話するわ。それじゃ、約束よ」
「OK」
カンナは電話が切れたあと、放心状態だった。その割には、電話中は頭がくるくる働いて、会う日を決めるときは、会う前にエステもいきたいし、美容室にもいきたいしと、一刻も早く会いたい気持をおさえて、再来週と言ったのだった。
カンナはこの嬉しさをひとりで持ちこたえることはできなかった。
誰かに話したかった。邦子にいうと早計だと叱られそうだった。千里では、若すぎると思った。ここは、一番大人しい穂波に聞いて貰うのがいいと思った。
カンナは間を置かず、穂波に電話をかけた。
「ねえ、聞いてよ、穂波。私ね、再来週上京して、柏木さんと会うことにしたのよ」
「ええ?もう家に帰り着いたの?そしてもうそんな約束もしたの?私ね、たった今帰り着いて、今、暑苦しいパンストを脱いでいるところなのよ」
「なにぃ、穂波、パンストを脱ぐなんて、おかしげなこと言わないでよ」
「だって、本当よ、今、脱いでいるところなんだもの」
「穂波、いやーだ。貴女は慎み深い奥さんだったじゃない。それも、れっきとした
現役真っ盛りの奥様じゃない」
「カンナが、色々聞かせるから、私もおかしくなっちゃったのよ。私も、カンナのように自由の身になりたいわ。そうしたら、ハンカチだってチケットだってルージュだって、なんだってわざとに落とせるもの」
「穂波、大丈夫なの?今家に誰もいないの?」
「大丈夫よ、私一人よ」
「貴女は四捨五入したら、まだ五十だけれど、私は四捨五入したら、もう六十よ。夫もいないし、最後のアバンチュール」
「そうね、楽しませてくれる人ではないけれど、私には一応主人がいるのだから、あきらめるわ。カンナや邦子の話を聞いてのぼせていたけれど、気を静めます」
「私は、申し訳ないけど、再来週東京に行って来ます。ごめんなさい。ひとりいい気になって、こんなことで電話をかけて。慎みがなかったわね」
「あれ、カンナ、私たちは、慎みがないから、いいんじゃない。お上品にばかりかまえている仲間だったらつまらないわよ。張り切って、行ってらっしゃい!」
「ええ、ともかく行ってみます。行って会ってから、どうするか決めるわ」
「嘘でしょ、そんなの。カンナは一目惚れで、もう、心はいっちゃってるわよ」
「そんな、でも、まあ…」
「ほら、図星でしょ。でも、一目惚れは悪くないのよ。相性がいいから一目惚れになるということも、あるんだから。パンスト脱いだらすっきりしたわ」
「また、パンスト。じゃ、早く着替えてね。東京から帰ったら、また、報告するわ」
カンナはのぼせてしまって穂波の気持を攪乱させるような電話をかけたことで、しおれてしまった。
しばらく携帯を握りしめて、テーブルに頬杖をついて放心していたが、気を取り直して花の水やりを続けた。
