弾む会話

カンナは、意識して淑やかにスプーンを口に運んだ。
 熱いドリアで舌を焼かないように、スプーンをちょっと揺らしてから、口に運んだ。
 一口口にいれては、カンナは、男性の横顔を見た。男性がカンナの視線に気付いてカンナの方を見たとき、カンナは、恥じらったように笑いかけた。男性は何か言おうとしているようだったが、物が口に入った状態では発音出来ないらしく、カンナの微笑みにこたえて笑い返した。その笑顔が好きだとカンナは思った。もう若くはない男なのに、何故か笑顔が可愛い。
 カンナは沖で揺れていた骨壺を、思い浮かべた。あの時、夫の骨壺が、楽しそうに波に揺れていたのは、夫も、カンナを応援しているのではないかと思った。
 あなた、あなたの記憶は私の奥深くに刻み込まれています。それは決して忘れることはありません。でも、もう、あなたとお別れして久しい。家に帰ってももうあなたはいない。今こうして生きている目の前の男性に近づこうとしている私を許して下さいね、とカンナは心の中でつぶやいた。
「東京で、何か用事でもありましたか?」
と、男は食べ終わってフォークを置いて話しかけてきた。
「亡くなりました夫のお骨を、夫の実家のお墓に納骨してきましたの」
「ほほう、それはそれは・・・。四十九日の法要とかで・・・」
「いいえ、もう、亡くなってから、二年経ちました」
「ほう・・・」
 男性は、腑に落ちないというふうに、言葉を詰まらせていた。
 まだこの国の常識では、四十九日の間とか、新しいお墓を造るまでの仮の間とかくらいは、お骨を家に置いておいても容認されるが、二年三年と置いておくと、変わった人と思われるということがある、と、カンナは知っていた。カンナは、別の見方をすれば、人々は、お骨を早くお墓に納めて、死者を切り離し、死者から早く自由になろうとして、常識を持ち出すのではないかと思ったりする。でも、ここは常識を重んじていた方が、変人扱いされるよりはいいという意識が働き、急いで言葉を接いだ。
「私は、夫のお墓を住み慣れた神戸に造りたかったのですけど、夫の両親は認めてくれなくて、結果二年もうちでいることになってしまったのです」
「ほほう、それは長かったですね」
「ええ、でも決心がついて先祖代々のお墓に納めてきまして、ほっとしました」
「そう言うときに、たまたま隣同士に座ったというのも、何かのご縁かも知れないですね。僕は大体月に一度は神戸に来まして、得意先を回っているのですが、普段は新幹線なのに、今日はふと飛行機にしてみようと思ったんです。これも、不思議なご縁ですね」
「そうでしたか。おっしゃる通りですわ。私も何か不思議なものを感じますわ。夕日を見ていましたら、あなたから、お声がかかって、ふっと見ますと・・・‥。あなたがいらして・・・・・」
 カンナは、ハンサムなあなたがいまして、と言おうとしたが、余りにもストレート過ぎると、口ごもったのだった。
「それで、お得意様回りといいますと、何かお商売でも?」
「ええ、小さな会社を経営しているのです。木工のおもちゃを製造しているのです。十年前までは、スーパーで働いていたのですが、大学の友達が信州出でしてね。山持ちで木が楽に手に入るので、木のおもちゃを製造して売らないかと持ちかけられたので、ちょうど、スーパーの仕事も飽きて来ていたので、乗ったんです」
「そうでしたか。でも、転職なさるとき、奥様は反対なさらなかったですか?」
「いや、僕は独身です。母と暮らしてるので、母は何も言いませんでしたね」
「それじゃ、自由ですわね。わかりましたわ、転職出来たわけが・・・。私も、自由なのですよ。子供がいませんのでね」
「ほうー、お互いに身軽同志ですね。これも、不思議な共通点ではありませんか」
「きっと、神様がお引き合わせ下さったのだわ」
「ほほう・・・」と言って、言葉を詰まらせたまま、男は照れ笑いしている。
「ところで、ビールかワインは如何ですか?」と、男は話を変えた。
「ビールに致しますわ」
「じゃ、僕もビール」
 男は、ウエイトレスを手招きして、生ビールを注文した。
「アルコールは強い方ですか?」
「いいえ、コップ一杯くらい飲んで、ほろ酔い加減の時が一番楽しいです。心がうきうきして饒舌になって、一人の時はテレビに向かって話しかけたり、踊りながら歌ってみたり。でも、すぐ醒めて、しらふになると、それこそ、しらじらとして淋しいです」
「僕も同じです。家で飲むときは、母が一杯くらいは付き合ってくれるんですけどね、それ以上は飲めないから、寝室に引き揚げたりすると、僕は、もっと酔っていたくて、深酒してしまうんですよ」
「お父様は?」
「両親は、僕がもの心つかないうちに、離婚していましてね。母一人子一人で大きくなったのです。大学卒業した年に母が子宮癌になって、働けなくなったので、僕が家を支えているうちに、ずるずると結婚もせず来てしまいましたよ」
「男性は、お幾つになっても、若い方をもらえますわよ。今からでも、遅くないわ。それに比べたら女性は不利ですわね」
「何をおっしゃいますか。あなたなど、お見受けするところアラフォーというところでしょう。まだまだ魅力一杯ですよ」
「お世辞がお上手だわ」
「いやいや、お世辞じゃありませんよ。この手など、ほんと、きれいです。ちょっと触らせて下さいますか?」
「いけません。駄目です」
「でも、ちょっとだけ」
 そう言ったかと思うと、男は、テーブルの上に置いているカンナの左手を、軽く二、三度撫でて手を引っ込めた。
 カンナは二年間、誰にも触れられたことがなかったので、そんなことだけでも、心も体も震えていた。酔いも手伝って、うっとりとした表情で男をみると、白髪のみえる男の顔がますます奥深く思慮深く、頼もしく見えるのだった。
「僕は柏木明也といいます。ここに僕の会社の住所がありますので、お渡ししておきます」
と言って、男はズボンのポケットから名刺入れを出して、名刺をカンナに渡した。
「いただきます。私は名刺など持っていませんから、何かにメモしてお渡しします」
と言って、バッグから手帳を出して紙を破ろうとすると、
「この裏に書いて下さいな」
と言って、自分の名刺をもう一枚出した。
「ほほう、山辺カンナさん。美しい名前ですね。ところで、カンナさん。カンナさんと呼ばせて下さいね。もしも、もしもですよね。本当はカンナさんにご主人がおられるとしたら、このことは、ご主人には内緒の内密にして下さいね。お骨の話を嘘だとは思っていませんよ。でも、もし嘘で、ご主人がいらしても、どうか、つきあって下さい。僕はカンナさんみたいな人が好きです」
「まあ、何をおっしゃるのです。主人が居まして他の男性とお付き合いするような、尻軽な女に私が見えまして?」
「いえ、そんな風には全く見えませんが、もしもご主人が居ても、僕はあなたとつきあいたいです。その気持ちを伝えたくて」
「そんな、歯の浮くようなお世辞をおっしゃって。でも、嬉しいわ。そんな風に言って下さる方が、まだいるなんて、思ってもいなかったものですから。私は一人暮らしですから、いつでもお電話下さいね」
「来月は、一日余分をとって神戸に来ます。ああ、もう、飛行機に乗らなくっちゃ。来月まで体を大事にしててくださいよ」
「はい、あなたも、お気を付けて・・・。お名残おしゅうございます」
 そう言って、カンナが、お辞儀をしかけると、男はカンナの手を両手でくるむようにし、力強く撫でてから搭乗口に入っていった。
カンナは、幸せだった。しかし、不安もあった。行きずりの人に、ただ、外見と物腰が紳士的に見えたからといって、心を明け渡してしまっていいものだろうかと思う。ポートライナーに乗ってから、名刺を取り出して見る。株式会社・柏木木工とある。住所もちゃんと書いてある。騙されてはいないと確信して、カンナは名刺をバッグに戻した。