出会い

 カンナは海に沈む太陽を眺めていた。沈む太陽の彼方に、黄泉の国があるとは考えられないが、赤い太陽のすぐ後ろに永遠の世界が広がっているような、それに身を任せていると安心が広がっていくような、そんな心地よさを味わいながら、神戸空港の喫茶店のカウンターに頬杖をついて、夕日を眺めていた。カンナは亡き夫の骨壺を、空想の中で、海の水平線、沈みゆく太陽のかたわらに置いてみた。何の変哲もないつるつるとした光沢のある白い骨壺。太陽に比べたら、本当に小さくて、水面に揺れながらおもちゃのように楽しそうに浮かんでいる。
 カンナは二年間、夫の遺骨を、夫が生前使っていたデスクの上に置いていた。自分と夫は、長年暮らした神戸の地に、永代供養をしてもらえるお寺を探し、その納骨堂にお骨をおさめたかった。しかし、東京の青梅の夫の両親は、長男の夫のお骨を先祖の墓に納骨するのが筋と、カンナの申し出をかたくなに拒絶した。カンナは姑との長年の確執から、青梅の墓には入りたくなかった。しかし、夫とは、別々の墓になりたくない。それで、二年間抵抗していたが、向こうの両親から、実家の母が責められているのを見て、決心がつき、夫の遺骨を青梅の家に渡し、今飛行機で帰ってきたところであった。
 カンナは夫の骨壺が水平線で楽しそうに揺れているのを見て、骨壺がどこの墓に納まろうとも、そんなことにこだわることはないのだと思えた。
 カンナの表情はゆるみにっこり笑っていた。
「奥様、ハンカチを落としていましたよ」
 その声に、我に返って横を見ると、隣に座っている男性が、ハンカチを拾って、カウンターにおいてくれるところだった。
 その顔を見たとき、何か懐かしいものがカンナの胸に広がった。その顔はどこかで見たことがあるような‥。ああ、いつもテレビで見ている神田正輝に似ているのだとすぐに気がついた。神田正輝の顔を、少しふっくらさせたような‥。そう気がついたとき、カンナの顔は赤くなった。
「すみません。ありがとうございます」
「どういたしまして」
 それだけで会話はとぎれてしまった。
 いい感じの人だという思いが胸の中に広がっていく。何か会話の接ぎ穂がないかと思いながら、ハンカチをもじもじと掌の中で揉んでいるうちに、太陽は沈み、暗くなった水面と一緒に、骨壺は見えなくなってしまった。
 カンナが隣を強く意識し、会話の接ぎ穂をあれこれと考えるうちに、もうその人が立って出て行ってしまうのではないかというあせりを覚えた。その人の前には、冷たい水の入ったコップがあるだけである。食べたものが下げられたのか、まだ出ていないのか、美しい夕日に気をとられ、骨壷の幻影に見とれていたので、隣のことは意識の中になかったから、わからない。
 飛行機がきれいですね、と、話そうか、どちらに行かれるのですかと問いかけようか、などと、思い巡らし、そのどれもわざとらしいと口に出せずにいると、
「お待ちどうさま」と、ウエイトレスが、隣の席にスパゲッティを運んできた。
 カンナはほっとした。チャンスはまだある。カンナは、自分も隣と同じことをしようと、
「すみません、メニューお願いします」と、ウエイトレスを呼んだ。
 今日はちょっと一人でお茶をして、姑たちの嫌な思いを断ち切ってから、マンションに帰ろうと思っていた。冷蔵庫の中におかずがどっさり残っている。けれど、この懐かしい清潔な感じのする隣人を逃したくはなかった。
 食べるとしたら、気分は男性と同じミートスパゲッティだったが、そこまでするとおかしいと、ドリアを頼んだ。
 ドリアが出てくるまでに時間がかかった。その間に男性がスパゲッティを食べてしまって、出て行くのではないかと、うっかりと時間のかかるものを注文してしまった自分の馬鹿さ加減に腹が立った。
 男性の気をもう一度引くのにはどうしたらいいだろうか。カンナはとっさにもう一度何かを、今度はわざと落としたらいいのだと思った。
 カンナは、左のひじで偶然こすったように見せかけて、伝票を落とした。
 うつむいてスパゲッティを食べていた男性は、
「あっ、落ちました」
 と言って、靴の脇に落ちた伝票を、わざわざフォークを置いて拾ってくれた。
「あらっ」と言って、カンナは申し訳なさそうに微笑んだ。
「私ったら、二度もご迷惑をかけて、お食事中なのに申し訳ありません。なんて今日はそそっかしいのでしょう。ありがとうございます」と、頭を下げた。
「いえ、大丈夫です」と、男性は答えた。
 そこへ、ドリアが運ばれてきた。
「これから、最終便で東京に行かれるのですか?」
と男性は声をかけてくれた。
「いいえ、東京から帰ってきたのです。でも、家に帰っても一人ですので、もうお食事をここですませていこうと思ったんですわ」
「ほう、お一人なんですか?僕はこれから、最終便で東京に帰るのですが、もし、そちらも東京に帰られるのでしたら、ご一緒できると思ったのですが」
「残念ですわ。ご一緒できたらよかったのに」
「まだ、時間はたっぷりありますから、こうして椅子を並べたのも何かの縁でしょう。うちに帰っても一人なら、ゆっくりお話ししましょうか。僕もどうして待ち時間をつぶしたらいいか困っていたところですから」
「ありがとうございます。私も、実のところお近づきになれたらと、思っていたところです」
 そう言ってカンナは、薄い唇から白い歯をのぞかせて、媚びるように笑いかけた。
 カンナは、自分の思う壺にはまったことで、自分の思いつきがよかったのだと、心の中で、自分をほめていた。自分がナンパしようとしていたのに、相手からナンパされたようになったのを、嬉しく思っていた。