今宵も、月と踊る


(冗談でしょう……?)

大学を卒業してから一般企業に勤めた私には当然コーチングの経験などない。走ることは人並み以上に出来ても教えることに関しては素人同然である。

本意が分からず戸惑っていると吉池さんは椅子を横向きにして、クロスが敷かれたテーブルの下からすらりと伸びた右脚を出した。

「見て」

パンツスーツの裾を引き上げると足首の辺りの傷痕が露わになって息を呑む。私の左足首にも同じものがあったからだ

「あなたと同じね。私も2年前にアキレス腱を切ったの」

怪我をしたことは送られてきた雑誌にも載っていた。生々しい傷痕が彼女の涙ぐましい努力を物語っている。

「ちょうど成績も伸び悩んでいて、引退も囁かれたわ。今は誰もそんなことを言いやしないけど」

吉池さんは同情する余地を微塵も与えずに、元通り脚をテーブルの下にしまった。

「学生時代、桜木さんのことが本当に嫌いだったわ。追いつこうと必死になっている私の先をあなたはやすやすと走って見向きもしなかった」

……憎々しげに語られるのは紛れもない本音だった。