蒼井彼方。英語と音楽の教師。吹奏楽部顧問。

彼は朝早くと放課後は、だいたい音楽準備室にいた。

その日私は、久しぶりに英語の質問をしに先生の元へと向かったのだ。

同時に、その日で先生を思うのは最後にしようと決めていた。

三階に上がり、準備室のドアをノックしようとした瞬間、中から聞こえてきたピアノの音に、私は思わず手を止める。

代わりにゆっくりとドアノブに手をまわし、なるべく音を立てないように静かにドアを開けた。

美しい旋律が部屋に響いていた。

その何処か哀しく、切なく響くメロディーは、まるで先生の心を表しているかのように思えた。

そして、私の心を表すように。

だってその曲は、まさに今の私の心にピッタリとあった曲。

ショパンの、別れの曲だったから。



するりと手がドアノブから滑り落ちた。

手の支えを失ったドアが、バタンと音を立てて勢い良くしまる。

同時に、ピアノの音もとまる。





「日向?」




私の存在に気づいた先生が立ち上がる。




「…先生…」


「…っ!どうした?」





先生は少し慌てて、私のそばに歩み寄る。

私は、泣いていた。




「大丈夫、そうではないな。怪我でもしたのか?」





ひどく優しい声音だった。

私はゆっくりと首を横にふる。

すると、先生はどこかホッとしたように息を一つこぼし、表情を緩めた。




「そうか、なら良かった。…とりあえず落ち着いた方がいいな。今紅茶を淹れてやろう。そこに座って待ってなさい」





そう言うと先生は水場に向かう。

『蒼井は厳しくてウザい。冷たい人間』なんていう人もいるけれど、全然違う。

厳しいのは生徒を思うから、冷たく見えても本当はずっと温かい人。

だってほら、彼はこんなにも優しいじゃないか。





「…日向?」





気がつけば、私はカップを手にする先生の背中に、抱きついていた。