月曜日の朝、いつもと同じようにマウスピースを磨きながら、不思議と自分のすぐ横に朔が立っているような気がした。

「朔、行ってくるね」

今までよりも明るい声でマウスピースに告げる。
通勤や通学でごった返している駅や電車をくぐり抜け、これまで通りに開ける編集部のドア。

「おはようございます」

いつものように誰もいない部屋に広がる雑然とした空気。それすらも、生きていることを実感した。

毎日の手順通り、室内に掃除機をかけ、ポットの湯を沸かし直す。
静まり返った中立ち上る湯気の温かさに、ほ…っと気持ちが和んだ。

「おはよう」

編集長がドアを開けて入って来た。

「おはようございます!」

いつもより元気よく挨拶する。それからコーヒーを入れて運んだ。

「ありがとさん」

カップに手が伸びる。一口啜ったその姿勢のまま、編集長は私に聞いた。

「土曜日どうだった?」

やっぱり、ちゃんと勘は当たった。

「演奏会すごく良かったです。特に坂本さんの演奏は記事通りで…聞き応えがありました」

感じたことをそのまま話した。編集長は笑みを浮かべ、私にこう言った。

「そうか。それで今日は小沢くんがご機嫌なんだ」

気分良さそうにコーヒーを飲み直す。
編集長との何気ない会話の一つ。いつもより心穏やかだった。

二人きりで始業時間を迎え、一時間経った頃、三浦さんが出社してきた。

「おはようございます」

コーヒーをトレイに乗せて近づくと、手にはゲラ刷り段階の雑誌が握られていた。

「それ…この間の記事が載ってるのですか?」

今までなら興味も持たなかったけど、あの記事だけは少し気になった。

「そうだよ…あっ、土曜日どうだった?」

編集長と同じ聞き方。可笑しかった。

「素敵でしたよ。坂本さんの演奏、ホントに語られてて素晴らしかったです」

私があんまり嬉しそうに話すもんだから、三浦さんは何だか残念になってきたみたい。ガクッと肩を落とした。

「そうだろうなぁ…あの人の話聞いてたら、きっといい演奏するんだろうなと思ったんだよ。聞きに行けなくて残念だったなぁ」

珍しく落ち込んでいる。ふふっ。もしかしたら今日も寝不足なのかも。
コーヒーをいつもの場所に置き、給湯室に行こうと向きを変える。
椅子に座ろうとしていた三浦さんは、手にした雑誌を見て私を呼び止めた。

「小沢さん、ちょっと…」

振り向くと手招きをしている。

「何ですか?」

デスクに近づく。

「君、昼から急ぎの用事ある?無ければこのゲラ持って、坂本さんの所へ行ってくれない?」

スッ…と雑誌が伸びてきた。

「…わ、私がですか⁈ 」

ビックリした。今までそんな仕事を頼まれたことがなかった。

「僕は他の取材先に行く予定があって回れないんだよ。でもゲラ確認は早い方が修正も助かるから」

当然のような理由。でも少し躊躇う。

「あの、私…」

行くのが嫌だとかワガママを言うつもりはない。ただ、土曜日散々泣きはらした顔を見られているだけに、恥ずかしかった。

「都合悪いならいいよ。他の者に頼むから」

アッサリした対応。切り替え早いんだ、三浦さんは。

「いえ、行ってきます!」

ゲラを受け取る。
私の思いきりの良さを見て、三浦さんは少し驚いた。
…と言うより、実は自分が一番ビックリしてる。
音と触れ合う事をあれだけ拒んできた人間が、『音の生まれる場所』に行こうとしているんだから。