キュッ、キュッ…

毎朝の習慣になってしまったな…と磨きながら思った。
銀色に光るマウスピース。
多分、彼が使っていた頃よりも光沢があって綺麗な筈だ。

「朔…行ってくるね」

写真に…と言うより、マウスピースに声をかける。
自己満足にしか過ぎないと分かっていながら…。


家の門扉を閉めて駅へと歩き出す。
大学を卒業して二年目の春。
私はもうすぐ二十四歳になろうとしていたーー。

通勤ラッシュの改札を抜けて、満員電車に揺られた先に辿り着く出版社。
勤め始めて、間もなく丸二年が経つ。

「おはようございます」

誰もいないだろうと思いながらドアを開けた。

「おはよう」

男の人の声に驚いて目線を上げると、チームリーダーの三浦さんと目が合った。

「お…おはようございます」

ドアを閉め中に入る。
てっきり誰もいないと思っていたから、心の準備ができていない。

「こんなに早く…珍しいですね。何かあったんですか?」

自分のデスクに向かい、荷物を下ろしながら聞いた。

「花音(かのん)の夜泣きがひどくてね。だから早めに出社したんだ」

寝不足だと言い、三浦さんは欠伸を噛み殺した。

二年前に結婚したエッセイストの奥さんとの間に、娘さんが生まれたのが二月の初め。
梅の開花便りが届いたのに合わせて『花音(かのん)』と名付けたそうだ。

「赤ちゃんって大変ですね。でも可愛いですよね」

給湯室に向かい、ポットの水を入れ替えて戻って来ると、三浦さんは笑って溜め息をついた。

「可愛いけどあの夜泣きには参るよ。まぁ毎晩じゃない分、まだ助かるけど…」
「奥さんお仕事の時どうされてるんですか?花音ちゃん泣いてたらエッセイ書けないですよね?」

奥さんは結婚する前から人気のあるエッセイストで、結婚しても出産しても、その仕事量には大して差がないのだと、三浦さんは以前こぼしていた。そして、その原稿の殆どを夜中に書くんだ…と。

「それが一旦仕事を始めると、花音が泣こうが喚こうが聞こえないくらい集中できるらしくてね。得な性格だよ」

おかげで自分が子供をあやすことになり困っているのだと、幸せそうな顔で愚痴った。

「ベビーシッターがいりますね」

冗談のつもりで言うと、三浦さんは半分本気のように、

「全くその通り!」

と笑い飛ばした。


いつもと違う朝を迎えて仕事に入る。
部署内で一番下っ端の私の仕事は部内の清掃と電話番が主で、出版社にもかかわらず、編集の仕事は殆どしない。
主に一般事務的な仕事しかしてないのに、どうして出版社に就職したのか。
それはきっと、アレと全く関係の無い事をしていたかったから。
あのツラい思い出から、ある意味距離を置く為にーーー。