地面に繋ぎとめられてしまったかのように動けない私に、また一歩、浅尾が近づいてくる。
「…私は、覚えてる。」
しっかりと言ったつもりなのに、掠れた声しか、出なかった。
そんな自分が情けなかった。
すぐ傍に来た、浅尾の顔が、ようやくはっきりと見える。
浅尾の表情は、何も映し出しておらず、感情を読み取るのは難しかった。
「何を、覚えてんだよ?」
ジャリ、とアスファルトと浅尾の靴が擦れた音がした。
「…椎名先輩の、こと」
ぽつりと呟いた久しい名前は、頼りなく震えた。
無表情だった浅尾の顔が、薄く歪んだ。
人間の記憶は、いい加減だから、過去は美化される。
苦しかったことは、大したことのないものに。
幸せだったことは、ダイヤモンドのように、年を重ねるごとにカットされて、輝きを増し続ける。
それは、自分が思っていたことで、よく理解していたことだ。
「あの時の椎名先輩は、今は居ない。」
折角、浅尾の顔が、見えたと思ったのに、たちまちぼやけ始める。
あれから、一度も流していない涙が、また、息を吹き返してしまった。
癒えることのない傷口が、開く。


