渚と話している俺は、まるでミュージシャンという事を忘れて、恋人と渚といた、あの頃に戻っていた。
今まで、自分の本当の気持ちを認められずに避けていたのが、嘘みたいに、店の裏の休憩室で、お互いに色んな話をした。
特に盛り上がったのがThe Beatlesの話だった。
俺と渚は、まるで昔の死んだ渚と話していたあの頃の様に音楽の話をして、お互い興奮しあった。
渚は、俺のコアな話に頷き、音楽について、キラキラした目で、聞き入り、嬉しそうに笑った。
それは、俺が今までみた中で一番の笑顔まで向けていたように感じた。
俺は、一生懸命、音楽の話を俺に話す渚の横顏を見つめながら、思った。

こんな楽しい時間が昔あった事を随分、長い間、忘れていた気がする。
そして、耳に入ってくる渚の声やちょっとした生活音でさえも、今までのどんな有名なミュージシャンが作った音楽よりも俺にとっては、最高の心地良い音楽に聞こえた。
ただ、舞い上がっていた。
現実は、そんな簡単な事ではないというのに。


「もうすぐ、LIVEのツアーが始まるんだ。最終日は東京でやる予定なんだよ。良かったら、観に来ないか?」

渚は、思いもかけない突然の俺の誘いに戸惑っているようだった。
そして、渚の答えが、俺の舞い上がっていた気持ちを一気に、現実世界に引き戻すきっかけになった。

「無理ですよ。本木さんのLIVEのチケット、簡単にとれないって言うし…それに行けるかなんかわからないし。」

渚の態度や口調を見て、断るための口実だと言う事は、直ぐに解った。
当然だ。
普通は、女に対してロクな噂しかない俺の誘いに、裏を疑わないのはおかしいからだ。
そして、一番の理由は、もしかしたら、まだ、隼人への気持ちが完全に無くなってはいないのではないかと俺は思い込んでいた。
隼人のあの時の自信に満ちた言葉は、渚が戻ってくることがわかっていたみたいな口ぶりだったからだ。


「チケットの事なら、心配するな。いつも、孝之や奈緒だって招待してるし。それに、今、お前と音楽の事、話して、俺は、楽しかったんだよ。だから、お前にお礼がしたいんだ。別に、お前だけとかいう深い意味なんてないからさ。」

俺は、苦笑いしながら、わざと完璧に断られた時の逃げ道をつくるように、自分に言い聞かせる言い訳に使う為にそう言った。

渚は、さっき、音楽の話をしているときは別人のように、現実を忘れていたように笑っていた。
だから、俺は、自分の歌う歌、作った歌を、一番前のステージが見える客席から聞かせてやりたいと思った。
好きだという気持ちは報われ、簡単にハッピーエンドという訳にはいかない。
でも、音楽を通してなら、また、今のように、渚と現実とはかけ離れた時間を与えてやる事で、一瞬でも今のこの目を背けたくなるような現実を忘れさせてやれて、大好きな音楽を聴かせてやる事くらいなら俺にも出来ると思った。

心の中で、この時ばかりは、いい返答をくれるように祈りを込めた。

「ダメかな?」

半ば諦める様に聞いた俺に渚は、少し考えた後、横に首を振る。

「本木さんのLIVE、私も行かせてください。」


そう言った後、彼女は、満面の笑顔で小指を俺の目の前に出して、こう言った。

「約束!」

俺は、ゆっくりと渚の小指と自分の小指を繋いだ。

俺にとって約束するということが、こんなに嬉しいと感じた日はなかった。