本を読んでいるうちにすっかり暗くなり、慌てて部屋に戻って荷物を置き、隣室を訪ねてみたが、不在らしかった。ミルザムは夕食までの間に部屋に戻って、学院の大綱をまとめた冊子を本棚から引っ張り出した。山に来なさい、という言葉に関連する言葉を探すつもりだ。
 目次を見てもそれらしいものは見当たらないが、念のため少しずつ読んでいく。入学金、学費、生活費の項をぱらぱらと飛ばしながら、ふと、師匠がどのようにして自分の学費を捻出したのだろうという疑問がわく。これまで学費に関する情報は一切目にしなかったため、王立であるくらいだから学費はないのかもしれない、と考えていたが、どうやらそうではないようだ。しかし村での生活を思い返すと、とても学費を出せるほどの余裕はない。売るものも無かったはずだ。
 考え事をしながらめくっているページの中に、山、という単語を見つけて慌てて戻る。進路について、という項に戻ると、そこには簡単な図と説明が記されていた。
 詳しく読もうとしたその時、こんこんとやや控えめなノックの音がした。心当たりがないために恐る恐る出ると、そこに立っていたのはハリールだった。廊下の燭台のあかりに照らされて、栗色の髪が麦の穂色に光っている。
 ミルザムはどうしてかどぎまぎしながら、ハリールを招き入れた。ハリールは部屋に入るなり、「音を追ってきたの」と言った。

「知っているかしら、音を追う術。あなたのノックと足音を、エコーに訊くの。部屋を留守にするときは、魔法陣をドアの内側に下げておいているのよ」

 そうすると追えるの、と言葉を結んだハリールに、ミルザムは魔法陣を思い浮かべながら、まだ使ったことのない魔術に思いをはせた。

「それで、どういった用件?」

 首を傾げたハリールの声にはっとして、ミルザムは要綱を開いて見せた。

「山に来なさいと言われたんだけど、山って、何のことだろうと思って」

 ハリールはきょとんとしたような顔をして、今度は反対側に首を傾げた。

「あなた、山のことを知らずにここに入ってきたの?一体どうしてここに来たのかしら。あなたのような人は、ほとんどが山を目指しているのだと思っていたけれど」

 ミルザムはここに来るまでのいきさつを説明した。ある日突然、師匠に旅に出ると言われ、故郷からここまで旅をしてきたこと。王都について、学院の試験を受けられることになり、すぐさま学院で簡単な試験を受けたこと、そのまま師匠とは離ればなれになったことを要約した。師匠の名前や村の名前は伏せ、旅をした期間も念のためごまかした。ハリールはうーんとうなった後、よくわからないけれど、とつぶやいて微笑んだ。

「山に関しては詳しく教えてあげるわ。ここでの過ごし方にも関わるから。もう夕食の時間だから、食事をしながらというのはどうかしら」


 食堂の扉を開けた途端、ミルザムは廊下の燭台よりずっと明るい光に目を細めた。ハリールは絨毯を踏みしめて奥に向かい、カウンターでいくつかの料理を頼み始めた。ミルザムも慌てて後を追ったが、今日はなんだか空気が違う気がした。
 まだ少し早い時間なので、いつもより学徒は少ない。ざっと数えても6,70人ほどしかいないようだ。長テーブルに数人ずつ固まって座っている彼らは、いつもはお喋りに興じているはずなのに、躊躇いがちにミルザムとハリールを盗み見ている。中には気にしていないものも、無遠慮に見ているものもいる。
 等間隔にテーブルに置かれた燭台に照らされた顔から眼を逸らして、ミルザムはカウンターに向かった。ハリールが頼んでいたものと同じものを注文する。一足先に待っていたハリールに囁く。

「今日はみんないつもと違うね」
「気にしないことよ。あなたは知らないかもしれないけど、往々にしてあることだわ」

 ハリールは料理を受け取り、一足先にテーブルについた。カウンターから遠い机までゆっくり歩く間、無遠慮に受ける視線をものともしていないようだった。ミルザムは胸騒ぎがするのを感じながら、料理を受け取ると慌ててハリールに続いた。
 ミルザムがテーブルにたどり着くや否や、ハリールは食前の祈りを手早く終えて食器を手に取る。スープを一口飲んで、周囲をちらりと一瞥した。

「あなたは何も知らないようだから教えてあげる。この魔術学院に来る学徒のうち、大多数は私のような貴族か商家の子女よ。ここで二年間学ぶ知識や技術はこの国のことと、何より国を支える魔術師を知るうえで欠かせないことだし、学院を出たことで融通が利くようになるのが大きいわ。私たちのほとんどが二年で学院を出て、家に戻って貴族や商家の子としての勉強を続けるの。私たちはここで学ぶ多くをすでに知っているけれど、魔術の知識と技術はここでしか得られないわ。魔術師は弟子をとるのが基本だけれど、私たちのような子はまず弟子にしないわね。魔術師にならないのだもの。でも、この国にとって欠かせない人材である魔術師についてその本質を知らなければ、国政にかかわる上で困ることがあるでしょう。だからここに来る。学ぶことそのものが目的ではないから、みんな家のつながりを守るし、それを超えることはない。私とあなたがこうして話していることが彼らには衝撃的だと思うわ。中には魔術師を目指している子もいるでしょうけど、家のためにという思いの強い三男や二女、三女ね。魔術師になることで地位を得る人と、地位を持ったまま魔術師になる人がいるけど、後者は家を支えるための策ね。だけど、薬師と魔術師は違う。『魔術師として家を支える』ことを目指すには、覚悟も家の協力も必要だからあまり多くはないわ」

 いらいらしたように、ハリールは机を指で叩いた。分厚い木の板からは低い音がした。

「私はそんなこと、どうでもいいけれど。この国を支える魔術師と、魔術について興味があったから来たのよ。なのに家や社交の場で触れる人や知識とばかり触れ合うのにはうんざり」

 言い切って、ハリールは食事を再開した。ミルザムも慌てて食前の祈りを捧げ、食事に手を付ける。見慣れない肉料理に苦戦している間、ハリールは音もなく料理を片付けていく。肉を薄い皮のようなもので包んで煮込んだ料理を切り分けながら、ミルザムはハリールを盗み見た。

「二年間でここを出ない人もいる?」

 ハリールはナイフを置いて、じっとミルザムを見つめた。

「あなたの師匠は本当に何も言わなかったのね」

 ミルザムはなぜだか恥ずかしい気持ちになり、顔を伏せる。慌てたような声がするとともに、ナイフを握ったままの手を温かい手が包む感触がした。

「責めているのではないわ。不思議だっただけ。そうね、山のことも含めて簡単に説明するわね。ここで学べるのは、基礎的な知識だけ。本当に魔術師になりたい人は、王都を出て『山』と呼ばれる別校舎に行くの。過酷な環境だけれど、魔術師になるために必要なすべてがそこにあると聞くわ。私たちのような子は決してそこには行けない。でも、あなたは見た感じ、魔術師になるために来たようだったから、山に行くんだろうと思っていたの。授業での受け答えも、そんな感じだったから。あなたはいつも教師の問いの意味を考えていたわね。うまく答えられたためしがなかったみたいだけど」

 ミルザムは顔を上げた。とたん、ハリールは笑顔を見せて手を離し、ナイフとフォークを手にして食事にもどった。
 二人があらかた食べ終えると、ハリールは再び話し出した。ミルザムは、村にいたお喋りなおばさんを思い出した。薬を作るのに必要な材料を買いに行ったとき、いつも引き止められてお喋りに付き合わされるのだ。それでも帰りが遅いと怒る師匠との板挟みになったことが何度もあった。

「山に行くには、最低限の成績がないとだめなのよ。あなたはきっと師匠のもとで学んでいたんでしょうけど、ここでは基礎知識をまず身に着けるために、一度あなたの中の常識を忘れる必要があるわ。とにかく教科書を学んで、その知識をもって山に行くことね」

 ひそひそと抑えた声で語り終えたハリールは、ふと呟いた。

「今このことを知っておいてよかったわね。本当に何も知らなかったら、今の成績では二年後ここを放り出されて、それで終わりよ。よかったら私が勉強相手になってあげるから、わからないことがあったらいつでもいらっしゃい。といっても、授業で言われたことくらいしか答えられないけれどね」
「ありがとう。そうする。ええと、じゃあ、アリー…なんとか先生って知ってるかな。青い目で、山のことを教えてくれた」
「バハル・アリーム殿!!」

 ミルザムがしゃべり終える前に、ハリールが叫んだ。それほど大きな声ではなかったが、食堂にいた学徒たちの耳には届いただろう。興味深げな視線が寄せられ、そのうち何人かはひそひそと話しはじめた。
 ハリールはミルザムの腕を掴んで、いっそう声を潜めた。

「アリーム殿は、この国でも高名な魔術師よ。学院長と並んで、『山』での長を務めているの。お若いのに優秀な魔術師を幾人も送り出している方よ。仕事で首都を訪れることも度々あると聞くけど、その時は鷹によく似た大きな魔獣に乗っておいでなの。ああ、私もお目通り願いたかったわ!」

 興奮気味に語るハリールを見るともなしに見つめながら、ミルザムはアリーム先生と呼ばれた人とハリールが語った話について考えていた。
 師匠に言われたことを一度忘れて、ここでのことを学ぶ。師匠の名前と、村のことは喋ってはいけない。勉強を頑張って、山に行かなければならない。
 ぼんやりとではあるが、師匠がなぜ、どうやって自分をここへ送り込んだのか、知りたいと思った。師匠のことをなぜアリーム先生が知っているのかはわからないが、師匠がどういった思いでミルザムを魔術学院へやったのか、今どこにいて何をしているのか、もしかしたら知っているのかもしれない。
 ミルザムは、見たこともない山に思いを馳せた。