散策するうちに中庭に出たらしい。歩き回るうちに、学院がコの字型になっているらしいことと、広い中庭があることに気づいてようやく出口を探し当てた。中庭には背の低い草が植えられ、どこにも腰かけられるうえ、花や薬草が植えてあった。それほど高くないじょうぶな木がぽつぽつと立っており、その下で本を読んでいる学生も数人いる。ここはどうやら勉強に向いているようだ。ミルザムも先客と同じように木にもたれかかって日蔭で本を開くと、夏の日差しと木陰のひんやりとした空気が程よい。お尻の下の草が少し痛いが、慣れれば気にならないほどだろう。秋になると外でじっとしていられないほど寒くなることを考えて、今のうちに太陽の下で勉強するのは良案に思われた。
 とりあえず教科書を読んでみることから始める。師匠から教わったことがたくさん載っている。しかし反面、師匠が言っていたことと異なる部分もある。きっと、この本を書いていた人はそういう考えの人だったのだろう。師匠が書いていた本を読むとやはり師匠の考えがそこに表れていたように、この本にはこの本の考えがあるのだ。ミルザムは一人納得して、本を読み進めていった。
 ある程度読んだところで、本にさす影が濃くなっていることに気づいて顔を上げた。ミルザムのすぐ近くに、ローブの帽子を目深にかぶった人がしゃがみこんで教科書をのぞき込んでいた。頬杖をついて少し微笑んだ顔は陰でよく見えない。口元は笑っているようだ。ミルザムは驚くこともできずその人を見つめた。

「君がミルザムだね」

 声からすると、師匠と同じくらいの年齢の男性らしい。どこかで聞いたことのある懐かしさすら感じるような、温かみのある声だった。男性はローブを少しだけ持ち上げて、ミルザムの顔を覗き込んだ。こちらからは顔が見えないが、ちらりと瞳が見える。真っ青な瞳だった。それも一瞬のことで、さっと顔を上げると彼は本に目を落とした。

「この本は君にはつまらないだろうが、まずはここに書いてあることを覚えてみなさい。でも、師匠から学んだ知識は決して忘れないようにね。それが何より君の身を守り将来を補償するだろうから。それから、師匠の名をここで出してはいけないよ。どうやら誰も忠告しなかったらしいが、村で学んだすべてのことは君が独自に学んだことにしなさい。あそこで読んだ本の名前も出してはいけない。隣人の名前もね」

 囁くような低い声だった。矢継ぎ早に言われた言葉にミルザムが目を丸くしている間も、男性は喋りつづけた。

「試験は特に君にとってつらいだろうが、まずはここでの生活を頑張って、山に来なさい。いいね、必ず山を志願するんだ。ここでの生活は心地よいが、慣れたり飲まれたりしてはいけない。君は山で魔術師になるべきだ。だからまずは試験を頑張ることだよ」

 ミルザムが相槌すら返せないでいるうちに、男性はすっと立ち上がった。木陰ながら顔が少し見えた。ローブの合間から、優しげな微笑みがミルザムに向けられていた。しかし、どこか泣きそうな風にも感じられた。
 声と顔から師匠と同じくらいの歳らしい彼は、ローブをさっと引っ張って顔を隠した。その途端、遠くから呼び声がした。

「アリーム先生!」

 中庭に飛び込んできたその若い男性は、息を切らしてどうにかこうにかといった様子で走ってきた。
 息も絶え絶えにミルザムたちのもとにたどり着いた彼は、膝に両手をついて肩で息をしながら、息の合間に言葉を継いだ。

「こんなところで何を…。今すぐ学長室にお戻りください。明日には山に帰るんですから、時間が無いんです」
「わかってるよ、ただここが懐かしくてつい散歩をね」
「懐かしいって…。たびたび仕事で来ているじゃないですか、何を…」
「中庭に来たのは久しぶりだったよ。まあいい、戻ろうか」

 アリーム先生と呼ばれた男性は、若い侍従らしき男性からミルザムを隠すように間に立って、その侍従をなだめるように肩を叩いた。彼が息を整えるのを待って、ミルザムから離れた。
 そして、数歩離れたところで振り返り、

「これ、ありがとう」

 手に持っていた赤い木の実をミルザムに見せるように掲げた。それはミルザムが食堂で包んでもらったもののうちの一つだった。あたりを見回すと、一回り小さくなった木の実の包みがあった。甘酸っぱい、ミルザムの好物のそれを、男性は放り投げては受け止める動作を繰り返し、せかされながらも中庭を後にした。
 残されたミルザムは、しばし呆然とした後、再び教科書に目を落とした。そして、ふと思い出して呟いた。

「山って、何のことだろう…。」

 週末のうち、隣室の602を尋ねてもいいかもしれない、と考えて、教科書に没頭することにした。