こんこん、と控えめに響いたノックの音にミルザムは目を開いた。いつの間にか布団の中にもぐりこんでいたらしい。ゆっくり身を起こすとベッドの脇に式典用のローブが落ちているのが目に入り、あわてて拾い上げた。
 身支度を済ませて食堂に行くと、そこにはすでに朝食をとっている宿舎の面々がいた。いくつも並べられた長いテーブルに着座した学徒たちは、みな一様に身なりがよく、ミルザムには式典用のローブとどちらが上等かなど見当もつかなかった。少なくともミルザムのように、手織りの文様をあしらった夏用の上衣を腰で縛り、ズボンとブーツを履いた服装をしたものは見られなかった。朝の光をそのまま跳ね返すような光沢や、動物性の繊維を使ったものなど様々あるようだ。色彩の鮮やかさや装飾品の数は人によって差があるが、どうやら恰好が似通っているものどうし隣り合って座っているようだった。そのうえお互い顔見知りのものも多いようで、名前を呼び合っているものもいる。ミルザムは学院で初めて同じ年頃の人間を見たが、彼らがどのようにして知り合う機会を得たかが不思議でならなかった。
 このひと月で学んだように、列に並んでパンとスープ、いくつかの果物をもらうと空いているところに腰を下ろした。どうやらここでは似た者同士一緒に食事をとるという風潮があるようだが、ここにはミルザムと似通ったものはいないので、一人で食べるべきだろうと思いそのようにしていた。そして実際、声をかけてくるものもなく、みなミルザムが来るとひそひそと何か囁きながら食べ始めた。ミルザムは師匠を2人で囲んだ食卓を思い出し、堅いパンや温かいスープ、畑や山道から摘んできたもので採る朝食を懐かしく思った。そうすると同時に、どこからか薬草とインクの匂いが漂ってくるような気がした。


 村の野外集会場をほんの少し大きくしたような円形の教室は、食堂の数倍の学生でいっぱいになっていた。ミルザムは村でそうするように空いている席のうちできる限り舞台に近いところに腰かけた。村では後ろの方は発言権のある者が全体を見渡していて、子どもや若い大人たちは前から座るのが常だった。発言権のあるものはおおむね足腰が悪い年代だったというのも関係しているだろう。
 教室は屋内とはいえ野外集会場に比べてずっと広く感じた。天井が高いせいかもしれないが、人が大勢いるからかもしれない。私室と同じようにどっしりとした木材で作られた机、縦に長いいくつも並ぶ窓、繊細なつくりのカーテン。アーチ状の天井には何重もの梁がめぐらされていて、それ自体が美しい。壇上には大きな黒板が備え付けられている。
 あたりを見渡しているのはミルザムくらいのもので、誰もが友達と囁き合っているのがきこえる。
 一つ一つの声は小さいが、それも集まれば村の子ども達がはしゃぐ声よりもずっと大きくなる。嵐の前に木の葉がざわざわしだしたときのような音が、波のように聞こえてくる。様子を伺うように周囲を見渡すと、そのほとんどが子どもと呼ばれる世代から、大人とはいえ若い世代くらいの人たちだった。ミルザムは息をのんだ。同世代の人間がこんなに大勢集まったのを見たのは初めてだった。皆一様に同じ本を持って、普段着の上から普段着用に支給されたローブを羽織っている。土で汚れているものも、薬草籠を抱えているものもいない。薬草や土のにおいなどどこからもしないし、インクで袖をまっ黒にしているわけでもない。若い大人は師匠ぐらいしか知らないし、子どもたちは村で畑仕事をしているものだった。知らない国から来たひとたちが知らない言語を話しているようだ。ミルザムは前に向き直り、手元にある本を開いて読むことにした。幸いそこには見覚えのあるものがたくさん並んでいた。師匠から習った言語だ。魔術を記述するときにだけ使い、普段使う言語とは構造こそ似通っているが伝えるための言語ではなく記述するための言語であるため、翻訳不可能な語が多数あった。ミルザムはすでに懐かしさすら感じる文字を目で追いながら、教師が来るのを待った。しかし、これほど多くの人間相手に、教師がどのようにしてものごとを教えるのか全くの謎だった。


 最初の授業では、教師は名をタリーヤと名乗った。褐色の肌に鋭い眼光を持つ彼女は、開口一番言い放った。

「諸君の半分はここに来るまで身分を確立された子女であり、教養と貴族としての素養の一つとして魔術を識るためにここにいることだろう。もう半分は身を立てるための術としてここに籍を置き、学院を出た後は各々めいめいの道でその力を振るうことだろう。しかしいずれにせよ、この国の歴史の上に立ちそれを継いでいく立場にあるということを忘れてならない。それを忘れたとき、魔術が我々に仇為すことを知ることから始めよう」

そして、魔術とは何か、この学院で何を学ぶべきかについて話しはじめた。そのほとんどは教科書にすでに記されていることだったが、多くの学徒は神妙な顔をして聞き入っていた。
 いわく、この学院では国を支えるための魔術師となることをめざし、品行方正であらねばならない。
 世の全ての魔術師がそうであるように、自然に反してなおその力を持ちうる魔術師はいない。己と自然がどうあるべきか、自ら考えその力を使役しなくてはならない。
 そしてここで得た知識と技術の全てを人々に還元しなくてはならない。なぜならこの学院は血税の一部で成り立っており、また多くの学生の出自を見ると、彼らもまた民衆に支えられてここに立っているからである。
 最後に、魔術師になることで得られる地位と知識と力は何物にも揺るがされることがないが、それに自ら溺れることがあってはならない。
 演台の教師は熱意をもってそれを語った。そして、魔術の歴史について語り始めた。周りの者はその途端紙に筆を走らせ始めた。ミルザムもそれにならい、支給された紙に言われたことを書き留めようとしたが、どうにもついていけなかった。教師は師匠のように繰り返したり、ミルザムが自分の意見を述べる機会をくれたりはしなかった。途中、何人かの学生に答えを求めたが、それは考えではなく決められた単語を言わせようとしているようだった。ミルザムが紙と格闘しているうちに終業の鐘がなり、タリーヤはいくつかの課題と次回以降魔術史をしっかり学んでおくことを指示し、教室を去って行った。
 ミルザムは、何が何だかわからないうちに本を片付け、次の場所に移動するために他の学生に続き席を立った。