「学長挨拶」

 物々しいほど低い誰かの声が告げて、檀上に女性が立ったとき、少女はなぜか学長と呼ばれたその女性とぱちりと視線が合った気がした。
 しかし彼女は気に留めた様子もなく場内に視線を巡らせ、流暢に口上を述べ始める。
 少女はその様子をぼんやりと見つめながら、目まぐるしく過ぎていく物事や時の流れに目が回りそうな思いがしていた。
 見たこともない大きな建物。身に着けたことのない上等な布地のローブ。村全体の人数よりはるかに多くの人々。それらがここ数日幾多も通り過ぎていった。

「皆様方がこの王立魔術学院での生活を少しでも有意義に過ごされますよう、心からお祈り申し上げます。とともに、関係者の皆様には温かく見守っていただけますよう、お願い申し上げ、わたくしの挨拶といたします」

 学長の言葉に、耳鳴りがするほどの音が応える。少女は驚いてあたりを見渡す。それは大勢が手を叩いている音だった。

 こうして、一人の少女が魔術師となるべく、王都での生活を始めたのである。



 王立魔術学院。国内で学院、といえば魔術学院をさす。
 他国の領土の隙間に押し込められるようにしてできたこの国は、三方を険しい山脈に囲まれ、輸入出もままならない弱小国として細々とその歴史を築いてきた。冬の寒さも厳しく、領地としての利点も無いが、切り立つ崖の合間にみられる珍しい植物を求めて寄る人々が絶えずあった。何でも他国では珍しい薬になり、高値で取引されているという。
 歴史上の小さないさかいの数々から学んだ先人たちは、国外から訪れる旅人たちの案内と国内での素行の監視役を兼ねて、薬師を登用することとした。この国では薬師はそれ以上の不思議な力を操り他国の人間たちからは畏れられていたからである。また、彼らには不思議と自然も味方し、旅人たちを山脈の合間の目的地に導くこともできた。
 多くの人間たちがその力を求めたが、山脈と彼らの力によって阻まれてきた。薬師たちは国を守る役目を負うようになったのである。
 そのうち薬師たちは、不思議な力を使役し、ある程度の地位を持つ者たちに限り魔術師と呼ばれるようになった。
 今では魔術師たちは、王宮に籍を置くもの、戦地に赴く者、国防に尽くすもの、国の様々な技術発展につくす者たちのことであり、町で薬師の役目を負うもの、旅人の道案内をするもの等それぞれの役目を負う者たちとは一線を画する存在となった。その性質上、もとよりある程度の身分があり家のために力を得ようとするものと、魔術師になることで最低限の地位を得ようとする者たちとで構成させる図式となった。そしてそのいずれも学院の教師を含めた師につくことを義務とされ、人の役に立つと誓うことで初めて魔術師の力を得、その道を外れたものはその力に敗れるとして一定の規律に従い生きる者たちの集団となった。さらには最低限の地位と生活を約束された身分になるには王立魔術学院を出ることが条件づけられ、多くの者たちが学院を目指して日夜その腕を鍛えていた。

 そして、ある年の夏。
 入学の儀式に次ぐ様々な儀式を終え、少女は疲れ切った様子で宿舎に戻り、ローブを脱ぎ捨てた。とはいってもいまだに着慣れない構造の服を脱ぐのには思ったより時間がかかり、ローブを握ったまま寝台に倒れこんだときには汗だくになっていた。
 この夏入学を許された学徒の一人で、名をミルザムと言った。
 一か月前、師匠とともに学院を訪れ、その場で師匠と離れ、学院長の部屋でいくつかの個人的な問答と薬草の見分け方や魔術についての知識を問われ、答え終わるや否や「入学を許す」と告げられ、それからはあっという間に部屋と食事を与えられ、学院内の宿舎に住まわされることとなった。
 一人につき一部屋与えられた自習室。制服として与えられたローブは式典用と通学用の二着。勉強のための机、本、筆記用具や様々な小物。刺繍道具。布地。
 部屋は、今までずっと師匠と住んでいた小屋と比べても大きいほどだ。家具のたてつけのよさは比べ物にならないし、ゆがみのない窓ガラスなど見たこともなかった。村では窓は壁にあいた穴をさした。
部屋の天井はドーム型になっていて、奥には大きく風景を切り取る窓がある。外を見下ろせば広い菜園になっている。冬は冷えることを配慮してだろう、分厚いカーテンが全体を覆えるようになっている。
勉強机を始めとして、調度品は落ち着いた色の木材を使用している。どれもよく磨かれていて、古くはあるが作りがよく、あと何十年ともちそうだ。ベッドも広く、床にはしっかりとした絨毯が敷かれている。いくつも置かれた燭台が部屋をぐるりと囲み、あたたかな明かりを灯している。ここに来るまでの廊下も、階段も、すべてが同じような雰囲気と素材で作られていた。
 なぜこんなところにいるのだろう。師匠と離ればなれになって。
 ミルザムは、明日から授業が始まるらしい、ということをもやがかかったような頭の中で反芻しながらその意識を眠りの中に沈めていった。
 今自分がなぜここにいるのか、何をなすべきか、ここがどういったところなのか、それすらミルザムにはよくわからないままだった。