「誰? 誰なの? どうして、呼ぶのよ。ねえ、海斗。この声が聞えないの?」

「友梨、何、バカなこと言ってるんだ。声なんて聞えないぞ。聞えるのは、地響きみたいな音だけじゃないか」

『こっちだよ。早くおいで。……私の、花嫁』


この言葉に、友梨がすっかり度肝を抜かれてしまったことは間違いない。声の主がどこにいるのかとせわしなくあたりを見渡している。だが、その場に彼女と海斗以外の人物がいる気配などどこにもない。それだけではない。この場に一緒にいる海斗には彼女の耳にはっきりと聞こえている声が聞えていないようなのだ。そのことに気が付いた友梨は、どうすればいいのかわからない、といった表情を浮かべることしかできない。


「おい、友梨。どうしたっていうんだ。さっきから、おかしなことばかり言ってるんじゃないのか? 声が聞えるとか言ってるけど、俺にはそんなもの聞こえないぞ」

「ほんとに海斗には聞えてない? だったら、私の空耳なのかな? うん、きっとそうだよね。あ、早くしないと入学式に遅れちゃうよね。うん、急がないと」


どこか苛ついた調子の海斗の声に、友梨は恐る恐るそう応えている。実際、彼女もこの声が空耳ならばいいと思っているのだ。だからこそ、彼の言葉に後押しされるように一歩を踏み出そうとしている。そんな時、ひときわ大きな声が友梨の耳に飛び込んできていた。


『行かせないよ。そなたがいるべきなのは、そこではないのだから。もう、時間がない。今すぐこちらへおいで』


その声は、先ほどまでとは完全に質が異なっている。威圧感しか覚えさせない声に恐怖心しか抱くことのできない友梨は、海斗の腕をギュッと握っている。彼女のそんな姿に、腕を掴まれている方はいぶかしげな声をあげることしかできない。


「友梨、声が聞えるって本当なのか? さっきも言ったけど、俺には声なんて聞えないんだぞ。聞えるものっていえば、地響きみたいな音? でも、近所で工事なんかしていないだろう? 地震の前触れかもって、入学式の日の洒落にもならないしな。ほら、早くしないと遅刻しちまうぞ」

「う、うん……海斗の言うことも分かるんだけど……でも、ほんとのほんとに声が聞えてくるんだもん。気にならない方がおかしくない?」


幼馴染に信じてもらえないことが、友梨の中では焦りにもなっているのだろう。訴えかけるような調子だった声が少しずつキツイものになっていく。そんな彼女の耳にまた届いてくる声。


『本当にそなたは強情だね。それとも、私が迎えに行くのを待ってくれてるのかい? だったら、その期待には応えてあげないといけないよね。他の者のわがままは許せないけど、花嫁たるそなたのわがままは可愛らしいものだよ』


海斗にすれば地響きにしか聞こえない音の羅列。だが、友梨の耳には意味のある言葉としてとらえられている。そして、その言葉の意味を正確に理解した彼女の表情がひきつっていくのも無理はないだろう。なにしろ、声だけの相手から勝手に『花嫁』と呼ばれ続けているのだから。

しかし、今の彼女がこの声に従うつもりがあるはずもない。たしかにこの声が告げている内容は気にならないはずもない。だが、今は高校の入学式に出席しないといけないのだ。感情的には別の物があることを承知したうえで、理性でそう抑えつけた友梨。そう思った彼女が一歩、足を踏み出した時――


轟音と共に桜の花びらが舞い、友梨と海斗の間をつむじ風が吹き抜ける。それを同時に和陽の「友梨!」という切羽詰まった声が飛び込む。


「お父さん! どうかしたの?」