「友梨、どうかしたのかい?」

「うん……なんだか、声が聞えたような気がしたのよね」

「そうなんだ。でも、お父さんは声なんて聞えなかったように思うけどね」

「そう? お父さんが聞いていないんなら、空耳なのかな? その割にはハッキリ聞えたような気がするんだけどね~」


和陽の言葉に、友梨は小首を傾げながら応えることしかできない。そんな娘の背中をグイっと押しながら、和陽は言葉を続けている。


「友梨の耳にはハッキリ聞えたのかもしれないね。でも、お父さんの耳には何も聞えなかった。ということは、空耳だっていうことが結論だよね。そんなことより、時間に間に合うのかな? お父さんに来なくていいなんて言うんだから、遅刻なんて情けないこと、しないよね?」


穏やかな口調ではあるが、言葉の端々からは棘しか感じられない。これは地雷を踏んでしまった。そう思った友梨はブルブルと震えながら、精一杯の虚勢を張って応えることしかできない。


「そんなこと、ちゃんと分かってるわよ。ちょっと気になったからお父さんに訊いたんじゃない。それから、遅刻なんてことになるはずないじゃない。まだ、時間は十分にあるんだもの」

「はいはい。それじゃあ、入学式には参加しないから、気を付けて行っておいで。ほら、海斗君が迎えに来たよ。待たせるのは、失礼になるってことも分かっているよね」


和陽のその声に、友梨が焦りの色を見せるのは間違いない。慌てた様子でカバンを持ち直した彼女は「行ってきます」と口にすると玄関先を飛び出していく。そんな娘の姿を優しいまなざしで見送った和陽。だが、その口から微かに漏れる声にはそんな気配は微塵もない。


「覚えておくんだよ。そっちの好きにはさせないからね」


誰もいないはずの空間に向かって放たれるそんな言葉。その声は、先ほどまで友梨を相手にしていた時とは違い、どこか冷酷な色も感じられる。そして、そんな彼の言葉に応えるかのように枝を震わせている桜。そんな気配を感じた和陽は、まるで桜の木に言い聞かせるかのように、もう一度『覚えておくんだよ』と冷たい声をぶつけているだけだった。

一方、友梨は自分が飛びだしてきた家の玄関先でそんな暗闘ともいえるものがあったなど思ってもいない。なにしろ、今の彼女は迎えに来てくれた幼馴染である海斗の機嫌を取らなくては、と思っているからだった。

海斗とはそれこそ物心のつくかつかない頃から一緒にいるといってもいい。だからこそ、そんな彼との付き合いは安心できるのだ。もっとも、この頃ではさりげなくかばわれていることにイラつくことがあるのも事実。もっとも、それが女の子として扱われているのだいうことを意識させるためだろう。それでもいいかと思ってしまう友梨がいる。

だが、それもある意味では仕方がないだろう。友梨の幼馴染である妹尾海斗(セノオカイト)は俗にいうイケメンに分類される。おまけに、彼がそういう配慮を示すのは友梨に対してだけ。そのことから二人が付き合っているのではないかという疑惑が中学のころから持ち上がってている。

しかし、いくら周囲が騒いだとしてもそこはキッパリと否定できる。友梨にとって海斗はあくまでも幼馴染であり、話しやすい男友だちという認識なのだ。もっとも、海斗がそのことをどう思っているかについては不明としかいいようがない。なにしろ、彼は自分の感情というものをハッキリと表に出してはいないからだ。

とはいえ、彼が彼女のことを異性として意識しているのは間違いないだろう。その証拠に、う約束の時間に贈れそうになっている友梨のことを辛抱強く待っているのだ。そんな彼のもとに、肩で息をしながら友梨が駆け寄っていく。


「友梨、遅い。何してたんだ」

「か、海斗……ゴメン……時間は分かってたんだけど……」