マシューは薄く涙の滲んだ目許を擦り、深々とため息をつくと、毛布の中で身を縮めた。床に直に置いたマットレス一枚では、絨毯もない冷えきった床から身を守るのは難しい。鼻をすすって、寒いばかりが理由ではなく震える息を吐き出した。
 青い長袖のスウェットに包まれた右腕を毛布の外へ伸ばす。触ると指がかじかみそうなコンクリートが打ちっぱなしの床を探ると、一枚の横長の厚紙がすぐに見つかった。画用紙を何枚か横に切って繋げた紙だ。サインペンでほぼ均等な区切りが縦に端から端まで並んでいて、規則的に黒く塗られた部分を挟んでいる。白、黒、白、黒、白、白、黒、白、黒、白、黒、白、白、といった具合に。区切り線は全体を八十八に割り、ちょうど真ん中辺りの白い区切り部分に赤いペンでアルファベットのCが書き付けられている。
 マシューはその赤に触り、それから、たたたたた、と親指と人差し指と中指を巡らせて、五回、紙の上を叩きながら滑らせた。ドレミファソ、というピアノの音が鳴る。もちろん、マシューの頭の中にだけだけれども。こうして毛布の中に潜り込んだまま弾ける、という点においては、紙で出来た鍵盤もそう悪くはない。マシューは今度こそ両手を伸ばして紙を引き寄せ、紙を床の上に置いたまま、ラヴェルのソナチネを弾き始めた。星が歌うようなきらめく第二楽章。ちょっと朝の一番にしては穏やかすぎる。手を止めて少し考え、ショパンのエチュードに変えた。これはとても楽しい。聞こえて来る音楽に嬉しくなって、マシューは微笑みながらその短い練習曲を軽やかな風のように弾き終えた。
 頭はまだあまりすっきりしないが、気分は随分良くなった。
 毛布を跳ね退けて起き上がり、毛布の中にぐちゃぐちゃと押し込まれていた鮮やかな桃色の靴下を探し出して両足をそれぞれきちんと包み、寝床の上を斜めに横切る洗濯紐に干してあったフリース素材のフーディを取って袖を通して、ジッパーを喉元まで上げた。部屋に一つきりの、知り合いのオフィスでゴミに出されようとしていたところを貰って来た椅子の背に、穿き古したデニムが掛けてある。無精してそれを掴み寄せ、寝床の上で穿いた。マットレスのすぐ傍に揃えて置いてあったよれよれの革靴に足を突っ込み、立ち上がって伸びをする。あくびを一つ。狭い部屋を見回す。殺風景で寒々しい。寒々しいだけならまだしも、本当に寒い。
 マシューは上着のフードを頭に引っ被って、両腕を組みながら肩を竦めた。どこかに毛玉だらけの赤いマフラーがあるはずだった。うろうろと部屋の四隅を歩き回り、一周して戻って来て、寝床の足下の方に放ったままになっていたのを見つけて、拾って首に巻き付けた。まだ頭があまりすっきりしない。すっきりさせるにはどうするか。備え付けの洗面台の冷たい水に手を曝すのは気が引ける。この公営住宅の隣人を訪ねて行って、コカインの吸い残しをねだるのはどうか。名案に思えた。
 マシューは床に置き去りにされていた紙鍵盤を拾い、丁寧に畳んで椅子の上に置いてから、部屋を出た。