寒い。
　いつも明け方には寒くて目が覚める。毎晩、見る夢は同じで、結末も変わらない。
　ピアノを弾いている夢だ。ステージでピアノの前に座り、大編成のオーケストラに囲まれて、指揮台に立ったマエストロの横顔を眺めている。精悍な横顔をした彼はちょっと素敵だ、と思う。鳴り響くオーケストラの音色は輝かしく、コンサートグランドサイズのピアノは鍵盤から弦、金色と赤の内部構造、黒く艶塗りされたニスまでが証明を反射してきらきらと美しい。オーケストラのいっときの静まりの中からピアノの音が立ち上がる。十本の指はすべてを知り尽くしていて、完璧な世界を構築し始める。沈黙の中に聴衆の感嘆を聞く。
　けれども、そのときとんでもないことが起こる。甲高い女の怒鳴り声が下手袖から上がったかと思うと、すべてを踏みにじるハイヒールの足音が舞台の板を打ち鳴らしながら近付いて来る。彼女は唖然としている聴衆の前でオーケストラと指揮者を大声で罵り始める。今や舞台は彼女のものだ。何度も見た光景。何度も繰り返した景色。
　そうじゃない。違う。それでは駄目。駄目。まったく駄目。駄目、駄目、駄目。
　不意にピアノの椅子から立ち上がって、彼女の肩を摩ろうとする。摩ってなだめようと。しかし彼女はそれを拒否する。乱暴に払いのけられた手が痛む。
　痛み。
　この痛みは手首の骨が記憶している。何度でも蘇る。あの瞬間を思い出させ、恥辱と怒りを穿り返し、悲しみは常に新しい。
　払いのけられた手で彼女のドレスの背中を掴み、力任せに舞台の前へ突き出し、両手で彼女を押しやった。彼女は舞台の下へ落ちて行き、コンサートホールは脱げたハイヒールが転がる音ばかりを響かせて、すべてが真っ暗になる。