久しぶりじゃない?と、グラスを置きながら微笑んだテンガロンハットの男に薫は晴れ晴れとした笑顔で答えた。
 「うん。忘れ物を取りに戻って以来ね。」
 「忘れ物?なんだっけ?」
 ふふふ、と含み笑いをした薫に、やらしいわねえ、とテンガロンハットが目を眇める。
 「で?ちゃんと見つかったの、忘れ物は。」
 手元でナッツを小鉢に盛りながらテンガロンハットが尋ねた。
 「見つかったよ。すごく大事なものだったんだ」
 「そ。よかったわね」
 小鉢をカウンターに置いて、テンガロンハットがニコリと笑った。カウンター越しに差すシーリングライトの下でテンガロンハットの青い瞼が瞬く。
 ミックスナッツをひとつふたつ摘んで口に放り込み、薫はまた機嫌よさそうに笑ってグラスを揺らした。


 タクミが去った後のテーブルに、薫が置いた名刺が取り残されていた。斜めに傾いだ文字で自分の携帯電話の番号が書かれている。たった数十分前に自分が書いた、最初で最後のタクミへの想い。
 薫は清清しい気持ちでその名刺を手に取って破いた。
 (これでいい)
 と、胸のうちでもう一度呟いて。

 「竹の秋、竹の春」
 新しい命を育てる為に枯れる季節を経てやがて何もかもが枯れ行く季節に華やかにその葉を茂らせる。自然の中には、季節の常識に抗いながら、ただ自分らしくいることを選び背筋を伸ばしている者がいる。春に枯れ秋に茂ることは、自然の摂理に抗っているのではなく、それが、彼の自然の摂理なのだと、壁一面の大きな窓から見えた竹の撓る様がそう言っていた。

 長い足をもてあますようにソファに座ったタクミを思い出す。
 最後に薫を見つめた優しく細まった目。
 薫の目を、髪を、肩を──辿った瞳。
 朝の光が降り注ぐホテルの部屋のベッドを沈ませているタクミの半裸。
 その前の晩に薫の背中を抱いた手、ルームライトに翳っていたタクミの顔。
 薫を透かすように遠くを見つめていたタクミのバーカウンターに凭れた腕。


 「──ルちゃん?」
 見上げると、テンガロンハットが薫に目配せをしていた。テンガロンハットの目線を追えばあの夜、盛り場の通りに置き去りにした男が一人でグラスを煽っていた。
 「カオルちゃんのこと、気にしてたのよ、彼。一言何か言ってあげたら?」
 「そうなんだ。そうだね。彼には申し訳ないことをしたんだ、謝らなきゃ・・・・」

 薫は、グラスを握り締めて立ち上がった。
 ほんの少しほろ苦さを滲ませた薫の顔はそれでもやはり晴れやかだった。薄暗いバーの光の中を進んでいく。テンガロンハットの男はその背中を見守った。
 「何を忘れたのかしらね。見つかったんだから良かったわよね。」
 カウンターの隅のアクリルの花器からサンデリアーナの竹のような茎が伸びている。男は薫から目を逸らしてふとその花器をみやり、グラスで水をやると茎についた汚れをそっとぬぐった。

 薫の春も、薫の秋もめぐる。ささくれた葉を落とし、新しい季節を迎え、地中から竹が天高く伸び行くように、しなやかに、薫はもう、俯かずに手を伸ばすだろう。



終わり