一晩の相手を想い続けて夏は過ぎ、秋が来た。

 どう考えてもまともではない恋でも、「可愛さ余って」という言葉を当てはめていいのだろうか。
 幸せそうに向き合っているカップル。ウェディング目前だろうか封筒を大事にそうに抱えている女性に、目線を合わせるように少し背を丸めている、その男の方がタクミだと気づいたとき、薫は胸の奥に燻り続けていたものが爆発したと思った。

 「タークミくん?ひさしぶり、こんなところで奇遇だねえ」
 躊躇いなどなかった。自分が最大限に魅力的に見える笑顔を薫は十分に自覚していた。やさしげに、けれどけしてやり過ぎない角度で首を傾げて穏やかに微笑んで見せた。ことに、タクミの隣に立つ女に向けて。タクミの隣という場所に当たり前のように立つ女に向けて。何をどうと具体的に何かを考えたわけではなかった。ただ彼のことばかりを考え続けた、思い続けた数週間が、濃密に淀んで、言葉で表現するなら「嫉妬」とか「復讐」とか怨念じみた気持ちが湧き上がるのを止めることができない。そして本能的に薫はタクミの連れの女に絶品の笑顔を見せておかなければならないと感じたのだった。

 「はじめまして、杉崎です。デート、ですか?ここのハイティーいいもんね。まだ少し時間が早いかなー」
 本当はタクミの何を知っているわけではなくても、まるで何もかもを聞いて知っているかのように振舞う。目の奥で探りながら、害のない笑顔で、必要なら「君は魅力的だね」と目だけで言ってみせることだって厭わなかった。
 「結婚式の打ち合わせで…」と女は言った。肩にかかるほどの髪はおそらくドレスでアップスタイルにするための長さを保っているのだろう。微笑んだ形のいい唇は淡いベージュピンクで、自然な笑顔がいかにもタクミが好みそうな女だという気がした。膝の丈のヌードベージュのスカートから綺麗な足が覗いている。
 (へえ)
 と、薫は目を細めた。女は少し照れ臭そうに笑みを大きくする。

薫は歪みそうになる笑顔を意識的に正して、夜の街で狙った男を落とす時のように妖艶に口角をあげた。真昼間の、こんな爽やかなホテルのロビーで、ビジネススーツをまとって、こんな笑顔は似つかわしくない。分かっていても、いま薫にできる一番の笑顔がそれだったというのはあまりにも皮肉だった。
 「そうかあ、もうすぐなんだねー。こんなかわいい奥さんもらうんだあ、タクミくん」
 筋違いの憤りに、ともすれば声を荒げて早口になりそうになる自分を抑えて、わざとのんびりと言葉の語尾を伸ばすように舌先に言葉を乗せた。タクミがあからさまに不愉快そうに眉を顰める。でも、女はそんなタクミの様子に気づきもしないで爽やかに手を胸の前で振って謙遜してみせてタクミと薫を等分に見ながら言った。

 「わたし、これから学生時代の同級生と会うのでこれで失礼します。タクミは杉崎さんとゆっくりしてきて!久しぶりなんでしょ?」

 薫は遠慮深い笑顔を作り、ビジネスバッグを右から左へと持ち替えると汗のかいた手をポケットの中のハンカチで手を入れたまま拭った。

 運命だ、きっと。

 薫は思う。

 この男に再び出会えたことも、この男がきっとひどく打ちひしがれていることも、恐らくだからこそあの女と結婚しようとしていることも、その女がこんなに簡単にこの場を去ったことも、何もかもが。

 どうにかしてやろう。
 本当はどうにかできるなんて思っていやしない。ただ、この男を欲しがる理由が必要とするように、まるで何か言い訳をするみたいに、この男をどうにかしてやろうとそう思っているだけなのだ。