「行きたいけど…」
『けど?』
「帰る場所から、」
そこまで言って、ふいに言葉に詰まる。
気になることがあったら言えよと言ってもらったばかりなのに、もう既に話すことを躊躇っていた。
「帰る場所から長く離れるのは、少し不安なの。』
『そうだな。』
優しく相槌を打ってくれる彼の声に泣きそうになった。
何かをごまかすようにグラスを握ったけれど、中には少し溶けた氷しかない。
いつもきっかけを自分で作るくせに、その先に進めない理由も自分が作る。
また誰かを好きになれても、一度深く根付いた不安や思い出したくない感覚はなくならない。
『すいません。ホットのアールグレイとコーヒーください。』
彼が店員さんを呼び止めて注文する声を、グラスを握ったままで聞いていた。
空いているお皿を下げようとする店員さんが少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、そのまま下がっていった。
ダージリンやセイロンよりもアールグレイが好きなことを確認するまでもなく分かってくれる程の時間を、私たちは過ごしてきたのに。



