部屋に戻って、ベッドに潜る。
枕元のスポーツドリンクのペットボトルが1本増えているのに気がついた。
また、空になったお粥の器も、なくなっていたのだ。

誰かが、勝手に部屋に入って片付けてくれたのだろうか。

そんなことを思っていると、コンコン、という控えめなノックの音が聞こえた。

「はい……」

「理名、ちゃん?
俺、拓実だけど。
入っていい?」

「う、うん。
まだ眠くないし、ちょっと暇だったから。
いいよ?」

どうか、さっきとは違ってすっぴんなのを気づかれませんように。
鏡の中の自分を見つめながら、返事をした。

「具合、どう?」

部屋に入るなり、そう言った拓実くんは、ベッドの枕元に置いてあった体温計に気がついたようだ。
ごく自然な動作でそれを拾い上げて、電源を入れると、表示を見て微笑んだ。

「もう、微熱みたいだね。
朝には、完全に回復していそうだ。
よかった。

まぁ、女の子は、時期によって体温の変動が大きいし、仕方がない部分もあるから。

多少の熱は可愛いもんだけど。

あと、貧血や腹痛もね。
人によっては目眩で倒れることもあるみたいだけど」

「ちょ、拓実くん、なんでそんなこと……」

私も、今日の朝、初めて生理なんてものを体験して、美冬や深月、それから、養護の伊藤先生に聞いて、知ったことなのだ。

なぜそれを、私の彼氏でもないし、しかも男の子である拓実くんが知っているのだろう。
考えて、合点がいった。

彼の父は医者、しかも総合医であるらしい。

それなら幅広い、体系的な知識が求められる。
守秘義務があるから、患者の病状についてはいくら息子といえどもおいそれと話すことはできない。

とはいえ何となく、「今日の診療はこんな流れだった」という話くらいはする時があるのだろう。
その流れで、彼が気になって調べたのかもしれない。

私は全然記憶にないが、中学校の保健の授業でも生理の話はあったはずだ。
そこでそれとなく話を聞いていた、ということもあるのかもしれなかった。

考えごとをしている私を心配しているのか、私の顔をじっと眺めると、彼は言った。

「ま、早く寝て、ちゃんと元気な理名ちゃん見せてよ。
久しぶりに、俺もちょっと運動したいし、卓球もダーツもボウリングも出来る、アミューズメント施設でも行こうよ。

病み上がりじゃなくて、ちゃんと、元気な理名ちゃんになってからでいいからさ。

病人を寝かせないでおく趣味はないし、俺もそろそろ寝る。
理名ちゃん、おやすみ」

相も変わらず、ひらひらと片手を振って部屋を出て行った拓実くん。

パタン、とドアが閉まるのを、何もできずに見つめていた。
本当は、もう少し話したかった。

けれど、まだ彼女でもない、下手をすれば友達以下の関係かもしれない私に、引き留められるわけがなかった。


夢みたいには、いかないか。
いつかみた夢を思い出して、切なくなった。

本当に、彼は私のことを、ただの友達だとしか思っていないのか。

そうだとしたら、「友達」より上の存在として意識してもらうには、どうすればいいのか。

そんなことを、美冬や椎菜、華恋などの「恋愛の先輩」に教えてもらいたい。
そんな衝動に駆られた。

でも、枕元に置いてあるデジタル時計は22時30分を過ぎていた。
こんな夜遅くに、彼女たちに電話をするのは気が引けた。
それに、風邪を引いている私が電話をかけても心配されるだけなのは、目に見えていた。

どうするべきか悩んで、結局、電話もメールも送らないまま、布団にもぐった。
風邪を引いていると、やはりどこかが弱っているのだろう。
いつもは自分の近くから遠ざけておく携帯電話も、なぜか今日は傍に置いたまま、眠りについた。



拓実くんと2人で、デートをしていた。
帰りに、今回は、きちんと家まで送ってもらった。
だけど、ちょっと急かすように私を家に入れたのが、気になった。

それから、拓実くんは、頻繁に会ってくれなくなったし、メールも返してくれないことが多くなっていった。

そして、最悪のメールが突き付けられた。

『理名ちゃん
こんなこと言いたくないけど、ちょっと距離を置こうか。
これだけは誤解しないで。
嫌いになったわけじゃないから。
理名ちゃんのためだから。
じゃあ、またね』

絵文字も顔文字もない、そっけないメールだった。



そこで、目が覚めた。
じんわりと汗をかいているのが、自分でも分かった。
心臓の鼓動も、心なしか早い。

……なんて夢だ。
一番、現実になってほしくない夢だった。

再びベッドに潜った。
今度こそ、いい夢を見れますように。
そう願いながら。


……いつも通り、電車で学校に通う。
いつもと変わらず、校門をくぐって、昇降口で上靴に履き替えようと、靴箱を開けた。

そこで、違和感に気がついた。
上靴がないのだ。
この学校の靴箱は、ダイヤルで4桁の暗証番号を合わせて開けるタイプだ。

初期設定こそ、自分の誕生月日になっているものの、後で、好きなものに変えられるようになっている。
その番号を忘れたりすると、また、初期設定に戻してもらう。

それには、500円の手数料がかかる。

だから、人の下駄箱を間違えて開けるなんて芸当は、出来るはずがない。
その番号は、人に教えてはならないと生徒手帳に記載があるほどだ。

いくら親しい友達でも、教えてはならないことになっている。
だからもちろん、私も教えていない。

「あれ?
理名?
どうしたの?」

「おはよ、理名。
はーやーく行かないと、遅刻するぞ?」

深月や美冬、華恋。
麗眞くんと椎菜が、仲良く登校してきた。
そして、皆が各々、履き替えている中、私がいつまでもスニーカーのままでいることに、違和感を感じたらしい。

「もしかして、理名、上靴、ないの?」

「うん、なんでだろう。
間違えるなんてこと、ありえないし。
クラスもいつものだし、学籍番号のシールも私のだし」

念のため、学生証のものと比べてみても、問題の靴箱は、私のものに間違いなかった。
皆はお互いに目を見合わせた。

麗眞くんは、携帯電話でどこかに電話をし始めて、数分でその通話を終わらせた。

3分もかからない会話だったため、上靴がどうのという会話しか聞き取れなかった。

そして、深月だけと私だけを昇降口に残した麗眞くん。
彼は他の皆を連れて、教室に向かった。
 
深月は、ただひたすら、私を守るように抱きしめてくれた。
それが、記憶の中にいる、母と被った。
そんな記憶を思い出した刹那、息苦しさを感じた。
その異変に、聡い彼女はすぐに気がついたようだった。

「呼吸、苦しいの?
理名、気持ち悪いとかもある感じよね、ちょっと待ってて」

タイミングよく、麗眞くんの執事、相沢さんが来た。
彼は、仮の上靴を持ってくると、軽々と私を抱き上げて、保健室に連れて行ってくれた。



ゆさゆさと、誰かに身体を揺さぶられて、目が覚めた。

「みづき、って……
あれ、あれっ。
夢……?」

「理名ちゃん、起きた?
おはよ。
何か、うなされてるみたいだったから。
熱でも上がったのかと思って、慌てて来たんだけど、嫌な夢を見ただけ?

ちょっとだけ、安心した。
よかった、何もなくて」

まだ眼も脳も覚醒していないときに見る拓実くんの爽やかな笑顔。

立て続けにみた悪い夢を、忘れさせてくれそうな気がした。

そんなことを考えていると、額に、彼の温かい温もりが触れた。

「よかった。
熱、下がったみたいだね?」

「さ、顔でも洗ってくれば?
枕の後ついてるし。
もうすぐ、食堂に朝ご飯が置いてあるって」

また、あの豪華な食事なのかなぁ。
ぼんやりと、あの日食べた食事を思い返しながら、顔を洗った。

顔を洗って、食堂がある階に降りる。

食卓に乗るものを見て、ポカンとだらしなく口を開けた。

五穀米に、ワカメとネギの味噌汁。
鰆の切り身に緑茶。

何たる庶民的な食事なんだ。
この豪華な家には、似つかわしくないと率直に思った。

「麗眞坊ちゃま、理名さま、拓実さまは、このようなものがよいかと思いまして。
今日も、学校がおありなんですよね?」

あっ!
忘れてた!

中学校の時は、そんなことなかったから。
ここは、有数の進学校。
土曜日も、授業なんだよね。


食べ終えて部屋に戻ると、綺麗にクリーニングされた制服がハンガーにかけたまま、用意されていた。
ちょこんと、巾着に入った上下セットの薄いブルーの下着まで用意されていた。

巾着の中のふせんには、『着古しだけれど、どうせサイズが合わなくなって捨てようと思っていたものだから、あげるわ』と書かれていた。

これは、きっと彩さんの見立てだろう。

ありがたく、それを着る。

アイメイクとリップメイクだけを済ませて、スクールバッグをむんずと掴むと、相沢さんが運転するリムジンに乗り込んだ。


あれが他でもない、「予知夢」だったなんて。この時は、まだ知らなかったんだ。