今は故人となっている、私にとっては母。
父にとっては妻である女性、鞠子。
父はもう、彼女のことは「過去の人」として忘れることにしたのだろうか。

そうだとしたなら、この父と縁を切ることも考えていた。
私にとっては、父より母が大事であり、慕うべき存在だったのだ。
その母を忘れるなんて考えられなかった。
少し迷った。

迷った末に、スクールバッグを掴んで、階段を昇る。
入ったのは、2つあるうちの、自室ではないほうの部屋。

ここには、母の仏壇が設置されているのだ。仏壇の前に膝をつく。


「お母さん。
理名です。
ただいま。
無事、入学式は終わったよ。
友達なんてまだいないけど、自分なりに高校生を謳歌したい。
空の上から見守っていてくれると、励みになるから、よろしくね」

心の中で、母に向けてのメッセージを告げて手を合わせた。
手を合わせていると涙が溢れてきた。

いくら医学部進学率が高い高校といっても、それ相応の努力をしなければ、医療の道には進むことはできない。
母が生きていてくれたならいろいろなアドバイスもしてもらえたかもしれないのに。

そもそも岩崎 理名という人間が、医療に携わることは最善の選択なのだろうか。
不安なことや心配なこと。
現実にこの制服を母にお披露目出来なかったこと。

不安と哀愁の波が心の中に沸き立った。
ぐちゃぐちゃになった想いが、涙となって目から溢れてきた。
その衝動を我慢することなく、本能に従って大声で泣くことにする。
次から次へと溢れてくるそれを拭うこともしなかった。
ひたすらに声を上げて仏壇の前で泣いた。
 

それからどれほどの時間が経ったのか分からなかった。
まだ4月だ。
茜色の空が暗くなる時間も当然に早い。
身体を起こして目を擦ると、母の仏壇が見えて納得した。
自分はそのまま泣き疲れて眠ってしまったらしい。

部屋の時計に目を向けると、もう20時をさしていた。
新品の制服をシワだらけにしては困ると、急いで自室に戻り、制服を脱ぎ捨てて、Tシャツと中学校のジャージの下に着替えた。
制服は、ゆっくりとした手つきでハンガーに掛け、クローゼットに仕舞った。
明日も制服を着て学校に行かなければならないの。
制服くらいは大事に扱うべきだ。

着替えた後は、ばふん、と音を立ててベッドに寝転がった。
カーペットで眠っていたため、ベッドのふかふか具合は心地よかった。
思い出すのは、入学式の後に話しかけてきた男女2人のことだった。