そんな話をした後の稽古納めの日、トオルはまたしても、ぶつくさ言っていた。
「本当にいつも適当なんです!」
いつにも増して腹を立てている。厳重警戒週間真っ只中で、神経が逆立っている事もあるのだろうが、どうもそれだけではないらしい。
「また彼女と何かあったのか?」
痴話喧嘩なら聞かないぞと言うと、そんなもんじゃありません!と息巻く。
あまりに感情を表に出している奴の姿に、さすがに少し心配になり、帰りに一杯やって行こうと持ちかけた。

「年明けの休みに、何処か行きたい所はないかと尋ねたんです。そしたら……」
「……海外!? オーストラリアでマウンテン・ロックか。そりゃいい!ははははは」
面白い発想に思わず笑いが出た。
「笑い事じゃないです!」
タンッ!とコップをテーブルに置き怒っている。どうやら飲んだことで、怒りに拍車がかかってしまったようだ。
「何がそんなに気に入らないんだ?」
そう聞くと、こんな答えが返ってきた。
「こっちは神経使った後の大事な休暇を有意義に過ごそうと思っているのに、冗談にも程があり過ぎる!」
酒を飲んでも気分は変わらないらしい。やれやれと息をつく俺の横で、トオルは肘をついて何やら考え込んでいた。

「…富田さん、確か登山が趣味だとか言ってましたよね。この辺りに、初心者でも登れる山ってありますか?」
何を言い出すのかと思ったら、山は山でも近場の冬山を教えてくれと言う。
「そんな事聞いてどうする?デートするんなら他の場所にしろ。山なんか登っても寒いだけだ」
いくらなんでも、あまり勧めたくない場所だぞと言っても譲らない。久しぶりに見せる強情さに、とうとうこっちが根負けした。
「そんなに言うなら教えてやってもいいが、山でデートしたって楽しくないぞ⁉︎ 」
酒を注ぎながら忠告すると、
「デートで登るのではありません。ペナルティーの一種です」
意味深な笑みを浮かべた。
「ペナルティー?」
随分乱暴な言い方だなと思ったが、悪天候なら止めると言う。
それならば…と手頃な山を教えたがーーー

年が明け、道場会の寒稽古があった日……
トオルは朝から覇気のない顔をしていた。
午前中はそれを一切表に出すことなく乗りきったが、昼休み、午後の打ち合い稽古の準備をしている最中に、大きな溜め息をついていた。
「何だ。寝不足か?」
少し落ち窪んでいる目を見て聞いた。
「はぁ。昨夜夜勤明けの後、あまり眠れなかったもんですから…」
そう言うと、また大きく息を吐く。単なる寝不足にしては、どうも妙な感じだ。
(まさか、また彼女と揉めたのか?)
一瞬そう思ったが、それにしては何もぼやかない。目は防具や竹刀を見ているのに、心ここに在らずといった風だ。
「小野山‼︎ 」
わざと大きな声で名字を呼んだ。びくついたトオルが、俺の所へ走って来た。
「精神が弛んどるぞ!午後の稽古が始まるまでの十五分間、座禅を組んで頭を冷やせっ!」
「は…はいっ!わかりました!」
剣幕に押しきられるように返事をすると、トオルは十五分どころか、三十分近くも座禅を組んでいた。
余程邪念が多かったのだろう。午後はスッキリとした表情で稽古に臨んでいた。

終礼が済み、ホッとした表情でいる奴を呼び出した。
「何があったのか話してみろ。力になれる様ならなってやる」
俺の言葉にトオルは少し狼狽えた。最初は何も言いたくなさそうにしていたが、ぽそりと一言だけ口にした。
「…実は登山した日、あっちからプロポーズされました…」
決まり悪そうな感じでいる。どうやら全くの想定外だったらしい。
「あっちと言うのは…彼女の方からか?」
「はい…」
「それで…お前、何と返事したんだ?」
「…しないと…」
「はっ?!」
「…結婚はしないと言いました」
「な…何だって!?」

おい、哲司よ…。
お前の息子は一体、何を考えてるんだ…?
もう…俺は、面倒見きれないぞ……。