彼は今、第九交響曲の指揮でオーストリア中を駆け回っている。


彼の口利きとNフィルでの功績で、詩月の楽団との契約も進められている。


詩月は晴れた日には、街頭でヴァイオリンを弾いたり、ピアノのレッスンの帰りや休みの日には、演奏を聴きに行ったりもする。


腱鞘炎で傷めた指の調子も悪くはない。


なのに……詩月の胸に、満たされない空虚さが押し寄せる。


お気に入りの音色が側にない。

共に、音を重ね笑い合える1人がいない。


「バカだな」と、詩月は口に出してみる。


メールを返せば、文面を通し気持ちを悟られる。

電話で話せば、きっと弱音が出る。

――そう思うと、詩月はメール画面を開けない。
ダイヤルできない。


言葉にできない思いが膨らんでいく。



「どうした?……」


講義を終え、詩月は廊下で見覚えのある学生に、声をかけられる。