「一緒に帰ろ」涙を拭うと、人懐っこい、痩せ細ったトラ猫を抱き上げる。思った以上に軽くて驚いた。
 私の目をじっと見つめる。
 「にゃー、にゃー」と、小さく鳴いた。
 「お腹が空いたよ」と、言っているような気がした。
 「お腹空いてるんだね。帰ったらミルクあげるからね」
 待ち合わせ場所のモニュメントの前まで、猫を抱きながら歩いて行く。猫は、おとなしく私の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、居心地良さそうに目を瞑っている。
 駅の出入り口の方から歩いてくる人達に視線を向け、夏目の姿を探す。
 みんな色々な表情をしている。恋人と笑いながら話してる人、携帯の画面を見つめてる人、疲れきってる人、けれど、夏目の優しい笑顔だけが、そこから現れることはなかった。
 今日はもう会えないんだろうな。
 仕事のトラブルがあったのかもしれない。偶然、久しぶりに会った友達と長話しをしてるのかもしれない。道の途中で困っているお年寄りを助けているのかもしれない。理由なんてなんだってよかった。ただ、この胸騒ぎが気のせいであれば。
 明日の朝、目が覚めたら連絡がきていて、改めて待ち合わせの約束をして、誕生日を一緒にお祝いすることができれば、なんの問題もなかった。この不安な時間さえも、私の夏目への愛を確認する時間にすればいいんだ。なんの問題もない。
 頭では理解できた。ただ、そこから動けないでいる自分がいた。金縛りにあっているような息苦しさを感じた。

 「にゃー」
 不意に大きな鳴き声がして我に返る。
 さっきまで瞑っていたはずの目を見開いて、私のことを見上げながら、なにか言いたげに鳴いていた。名前のない宝石のような瞳の中の瞳孔が、ぎゅっと縮まったのが見えた。心の中を見透かされているような気がした。
 「帰ろっか」猫に向かって呟く。
 「にゃー」と猫が応える。
 もう二度と、あの人と会えないかもしれない。そう思った。見えない糸が絡まっているように身体が重たい。それを振り切るように、一歩一歩、力を入れて足を踏み出した。待ち合わせ場所から遠ざかっていく。
 もう二度と、あの人に会えないかもしれないのに。そう思った。