大林亜矢はさすがに心配し始めていた。
 午後七時五十分、約束の時間から五十分、待ち始めてから一時間が経っていた。
 さっきから何回も夏目の携帯に電話をしているのに、電話にでる気配がまったくなくなってしまった。
 付き合い始める前から、デートの待ち合わせに遅れたことなど一度もなかった。むしろ、早めに来て文庫本を読みながら待っているような人だった。「本を読みながら人を待つのが好きなんだよ」と言っていた。
 何かあったんじゃないかと、不吉な妄想が頭をよぎった。
 お寿司屋さんに電話をして、もう少し遅れてしまう旨を伝え、すみませんと謝った。
 いっそ探しに行こうかと考えたが、行き違いになる予感がして、その場を動くことができないでいた。 
 でも、ただここで待つのにはうんざりしていた。さっきから、何のお店の人かは知らないが、お水系の感じの、いわゆるキャッチと呼ばれている人達が、すごくしつこく声をかけてきた。苛々した。
 ひとまず待ち合わせ場所が見えるカフェに入って、待つことにした。アイスティーを注文して、待ち合わせ場所に視線を向ける。身体の中に溜まった重い空気を吐き出してから、携帯を出し、夏目の携帯に電話をしてみた。一分程呼び出すと留守番電話に繋がってしまった。
 『ただ今、電話に出ることが出来ません』
 アイスティーを半分程飲んでしまうと、発信履歴の二列目にあるお寿司屋さんの電話番号に電話をかけた。予約のキャンセルを伝える為に。
 大変すみませんと謝ると、女将さんと思われる方が、気にしないでください、またよろしくお願いしますと、優しい声で電話を切った。
 ツー、ツー、ツー、規則正しく鳴っている不通音が、不安を募らせた。
 瞳に熱いものが滲んでくるのを感じた。
 一体どうなっているのだろう?電話は繋がらず、メッセージも既読されていない。
 三十分前に聞いた彼の声を思い出した。彼は急いで待ち合わせ場所に向かいながら「ごめん」と言っていた。
 滲んできた熱いものが、冷やされて
雫になって頬を伝っていった。
 バックの中には、誕生日プレゼントと、昨日の夜、寝る前に書いた手紙が入っていた。
 そっと便箋を開き、心の中で読み返してみる。
 
 夏目へ

 HappyBirthday

 誕生日に手紙を書いて三回目、夏目も、もう三十歳になるんだね。
 先週、髪を切りました。出会った頃の長さ位にしたの。色々思い出しました。
 最初に会ったときのこと覚えてる?
 夏目は私のことを見るなり、挨拶もせずに「猫みたい!」って言ったんだよ。その後「オレさー猫好きなんだよね」って言ったの。私が何も言えないで俯いていると「夏目理っていいます!よろしくね!」って笑ったの。
 なんでかは解らないんだけど、私この人の事、嫌いじゃないなって思ったの。私も猫好きだし。
 それから何回か顔を合わせて、初めてデートに誘ってくれた、あの時はうれしかったな。
 夏目といると素直になれる自分がいるのに気がついて、夏目のことを好きになっていたから。

 いつもありがとね。
 これから、私達にどんな未来が待っているのかは、誰にもわからないけれど、私は夏目と、ずっと一緒にいたいと思っています。
 
 誕生日おめでとう。

 亜矢より

 PS、夏になったら、花火大会に連れて行ってね!


 手紙を読み終えると、瞳を閉じて、深く、長く息をついた。
 時間を見るために携帯を出し、連絡が返ってきていないことを確認すると、氷が溶けて薄くなったアイスティーを飲み干した。心の奥の、渇いた部分にじわじわと染み込んでいくのが伝わってくる。少しだけ気持ちが落ち着いた。
 待ち合わせ場所に視線を移す。
 一匹の猫が寂しそうに、星の出ていない空を見上げていた。
 私は、涙の跡を指で拭い去ってから、猫の待つ、待ち合わせ場所に歩き出した。