我が輩は猫である。名前はまだない。夏目漱石の小説の書き出しだ。
人間だった小学生のときに読んで、夏休みの読書感想文に書いたのをおぼえている。
自分の名字が夏目だったので、読書感想文にはいつも、夏目漱石を選んで書いていた。特に夏目漱石が好きだったわけではないが、名字が同じだとゆうだけで、ほとんど会わない親戚に感じる位の親近感を、当時の僕は抱いていたのだろう。ただ選ぶのがめんどくさかったわけでは決してない。
『人間だった』と、言ったのには訳がある。
夏目理は三十歳の誕生日の日、彼女の大林亜矢との待ち合わせ場所に、ダッシュで向かっていた。
すでに十分以上遅刻している。焦っていた。
亜矢は電話越しに言った。
「焦らなくていいから、お店には、ちょっと遅れるって伝えておいたから」
「本当にごめん、ダッシュで向かってるから」
「気をつけて来てね」
今日は亜矢が僕のために、いつか行けるといいねっと言っていた、美味しいと評判の寿司屋を予約してくれたのだ。僕達は『廻る』寿司屋専門だったので、二人で『廻らない』寿司屋の勉強をしてから今日を迎えた。
付き合って三年が経ち、お互いに結婚を意識し始めていた。
亜矢は、本屋で結婚情報誌を立ち読みしたりしていた。
僕は、酔うと結婚しようと言う癖があり、その都度「できるといいね」と、軽くあしらわれた。次の日、朝ご飯を用意しながら「昨日言ったこと覚えてるの?」と、期待していない声で聞いてくる亜矢に、僕はいつも「酔っていて覚えてないな」と、コップの中の水をいっきに飲み干した。亜矢は「ふーん」と、わざとらしい返事をすると、空になったコップにペットボトルの水を注ぎながら「酔っ払い」と、無邪気な笑顔で言ってくれた。
そんな亜矢の優しい笑顔が、僕は大好きだ。だから今日は、必ず、真面目に、お酒も控えめに、プロポーズをすると決めていた。
待ち合わせ時間の前に、内緒で予約しておいた婚約指輪(亜矢の指のサイズが判らず、彼女の友達に協力してもらった)を受け取り、花屋でひまわりの花束(ひまわりの花言葉は、あなただけをみつめてる)を作ってもらい、段取りは出来ていた。
待ち合わせ時間が迫り、緊張し過ぎたせいかお腹が痛くなり、コンビニのトイレに入った僕は、プロポーズの言葉を考え始めた。ロマンチストな僕は、三つ程の、月並みなセリフをお尻丸出しで考え、ノックされるまで夢中でプロポーズのシミュレーションをしていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
若い女の人の声で我に返り、時計を見る。約束の時間になっていた。シミュレーションをしている間に四十分以上経っていた。
「すいません。今出ます。」
恥ずかしさと、焦りで頭が混乱していた。急いで手を洗い、ガムを手に取り、レジに持って行く。
「袋に入れますか?」
女子高校生だろう女の子が、ニコニコしながら聞いてくる。
「だ、大丈夫です。」
お釣りを募金箱に入れて、逃げるようにコンビニを出た。
「ありがとうございました。」
さっきまで夕暮れだった空はすっかり夜を迎えていた。街灯にも光が灯って輝いていた。
慌てて走りだし、さっきトイレで考えたプロポーズのセリフを、走るテンポと合わせながら繰り返した。胸の鼓動が早くなる。見慣れた街がキラキラと輝いて見えた。
携帯電話で亜矢に連絡し、待ち合わせ場所に急ぐ。敢えて遅刻の理由を聞かない、亜矢のそんな所も僕は好きだ。
待ち合わせ場所まで、あとこの交差点を渡ってもう少しの所、ちょうどタイミング悪く、信号が赤になってしまった。
汗で張りついたストライプのシャツをパタパタしながら、気がつくと足踏みをしている。早く亜矢に会いたくて左右を見る。見通しの良い交差点には、路駐している数台の車とトラック、タクシー、信号待ちをしている数人の男女。また左右を確認する。車のライトはまだまだ遠くに見えた。花束を持つ手に力が入る。焦る気持ちを抑えきれずに、赤信号の交差点に飛び出した。その瞬間、対面で待っている男と目が合った。男が叫ぶ口がスローモーションで動いているのが見えた。声は聞こえなかった。男が指差す方向に視線をゆっくり移すと、金色の光の渦が回転しながら近づいてくる。眩しさのあまり僕は目を細めた。怖さなどはなく、懐かしく、暖かな光の中に、ゆっくりと吸い込まれていく感覚がした。
どの位時間が経ったのだろう?
気がつくと真っ暗な草原の様な場所で目を覚ました。視界に靄がかかり、脳が覚醒していない。一度目を閉じ、脳をゆっくり覚醒させていく。
おかしい。
ここはどこだ?助かったのか?
立ち上がろうとした。痛みはないが、身体の自由が利かなかった。
恐る恐る目を開く。靄はまだ晴れていなかった。もう一度、目を閉じてしばらくじっとしていた。
徐々に意識が戻りつつあった。身体の動く箇所を探る様に動かす。異変を感じる。風が吹く度に、身体中がサワサワする。自分の身体じゃなくなってしまった様な、不可解な感触がする。
ようやく意識もはっきりし、力が入ってくる。
試しに右手を持ち上げ、掌をグーパーしようとして、また異変を感じる。指に間接を感じない?
ん・・・?
さっきより靄が薄れた目の直ぐ前まで掌を、そっと持っていき確認してみる。
なんだこれ?
肉球?・・・だよな?
人間だった小学生のときに読んで、夏休みの読書感想文に書いたのをおぼえている。
自分の名字が夏目だったので、読書感想文にはいつも、夏目漱石を選んで書いていた。特に夏目漱石が好きだったわけではないが、名字が同じだとゆうだけで、ほとんど会わない親戚に感じる位の親近感を、当時の僕は抱いていたのだろう。ただ選ぶのがめんどくさかったわけでは決してない。
『人間だった』と、言ったのには訳がある。
夏目理は三十歳の誕生日の日、彼女の大林亜矢との待ち合わせ場所に、ダッシュで向かっていた。
すでに十分以上遅刻している。焦っていた。
亜矢は電話越しに言った。
「焦らなくていいから、お店には、ちょっと遅れるって伝えておいたから」
「本当にごめん、ダッシュで向かってるから」
「気をつけて来てね」
今日は亜矢が僕のために、いつか行けるといいねっと言っていた、美味しいと評判の寿司屋を予約してくれたのだ。僕達は『廻る』寿司屋専門だったので、二人で『廻らない』寿司屋の勉強をしてから今日を迎えた。
付き合って三年が経ち、お互いに結婚を意識し始めていた。
亜矢は、本屋で結婚情報誌を立ち読みしたりしていた。
僕は、酔うと結婚しようと言う癖があり、その都度「できるといいね」と、軽くあしらわれた。次の日、朝ご飯を用意しながら「昨日言ったこと覚えてるの?」と、期待していない声で聞いてくる亜矢に、僕はいつも「酔っていて覚えてないな」と、コップの中の水をいっきに飲み干した。亜矢は「ふーん」と、わざとらしい返事をすると、空になったコップにペットボトルの水を注ぎながら「酔っ払い」と、無邪気な笑顔で言ってくれた。
そんな亜矢の優しい笑顔が、僕は大好きだ。だから今日は、必ず、真面目に、お酒も控えめに、プロポーズをすると決めていた。
待ち合わせ時間の前に、内緒で予約しておいた婚約指輪(亜矢の指のサイズが判らず、彼女の友達に協力してもらった)を受け取り、花屋でひまわりの花束(ひまわりの花言葉は、あなただけをみつめてる)を作ってもらい、段取りは出来ていた。
待ち合わせ時間が迫り、緊張し過ぎたせいかお腹が痛くなり、コンビニのトイレに入った僕は、プロポーズの言葉を考え始めた。ロマンチストな僕は、三つ程の、月並みなセリフをお尻丸出しで考え、ノックされるまで夢中でプロポーズのシミュレーションをしていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
若い女の人の声で我に返り、時計を見る。約束の時間になっていた。シミュレーションをしている間に四十分以上経っていた。
「すいません。今出ます。」
恥ずかしさと、焦りで頭が混乱していた。急いで手を洗い、ガムを手に取り、レジに持って行く。
「袋に入れますか?」
女子高校生だろう女の子が、ニコニコしながら聞いてくる。
「だ、大丈夫です。」
お釣りを募金箱に入れて、逃げるようにコンビニを出た。
「ありがとうございました。」
さっきまで夕暮れだった空はすっかり夜を迎えていた。街灯にも光が灯って輝いていた。
慌てて走りだし、さっきトイレで考えたプロポーズのセリフを、走るテンポと合わせながら繰り返した。胸の鼓動が早くなる。見慣れた街がキラキラと輝いて見えた。
携帯電話で亜矢に連絡し、待ち合わせ場所に急ぐ。敢えて遅刻の理由を聞かない、亜矢のそんな所も僕は好きだ。
待ち合わせ場所まで、あとこの交差点を渡ってもう少しの所、ちょうどタイミング悪く、信号が赤になってしまった。
汗で張りついたストライプのシャツをパタパタしながら、気がつくと足踏みをしている。早く亜矢に会いたくて左右を見る。見通しの良い交差点には、路駐している数台の車とトラック、タクシー、信号待ちをしている数人の男女。また左右を確認する。車のライトはまだまだ遠くに見えた。花束を持つ手に力が入る。焦る気持ちを抑えきれずに、赤信号の交差点に飛び出した。その瞬間、対面で待っている男と目が合った。男が叫ぶ口がスローモーションで動いているのが見えた。声は聞こえなかった。男が指差す方向に視線をゆっくり移すと、金色の光の渦が回転しながら近づいてくる。眩しさのあまり僕は目を細めた。怖さなどはなく、懐かしく、暖かな光の中に、ゆっくりと吸い込まれていく感覚がした。
どの位時間が経ったのだろう?
気がつくと真っ暗な草原の様な場所で目を覚ました。視界に靄がかかり、脳が覚醒していない。一度目を閉じ、脳をゆっくり覚醒させていく。
おかしい。
ここはどこだ?助かったのか?
立ち上がろうとした。痛みはないが、身体の自由が利かなかった。
恐る恐る目を開く。靄はまだ晴れていなかった。もう一度、目を閉じてしばらくじっとしていた。
徐々に意識が戻りつつあった。身体の動く箇所を探る様に動かす。異変を感じる。風が吹く度に、身体中がサワサワする。自分の身体じゃなくなってしまった様な、不可解な感触がする。
ようやく意識もはっきりし、力が入ってくる。
試しに右手を持ち上げ、掌をグーパーしようとして、また異変を感じる。指に間接を感じない?
ん・・・?
さっきより靄が薄れた目の直ぐ前まで掌を、そっと持っていき確認してみる。
なんだこれ?
肉球?・・・だよな?