車は順調に進み、仁にとっては、思いがけず訪れた、幸せな時間が流れていた。





「ん、お母さん?」



心地よさに、家で寝ていると間違えたのだろう、思わず、母親を呼ぶ。





「残念ながら」

「え?」



 上から振って来た低く甘い声に、頭を上げて辺りを見回すと車の中だ。周りの風景はネオンが流れ、景色は動いている。自分の情況を落ち着いて確認すると、仁の腕に自分の腕をからみつけている。そして、もたれ掛っていた。





「わああ、わあああ、あの、あの、すみません!! あたし、何かしましたよね? 絶対しましたよね?」





 寝てすっきりしたのか、酔いが幾分覚めたようだ。

 自分の癖は知っている。当然何かしでかしてしまったと思っている。ばっと仁から離れ、身づくろいをする。



「いいや、何も」



にやけた顔で仁は答える。





「うそ、絶対何かしましたよ! 運転手さん! あたし、何かしちゃいましたよね? ね?」





 後部座席から運転手に向けシートを掴んで問いただす。





「ぷっ、いいえ、何もございませんでしたよ」





 運転手も醜態をみている。思い出して思わず噴き出した。





「ほら、信じたか?」





 葵は信じられないといった風で髪を掻きむしる。いい歳の女の髪はぐしゃぐしゃだ。

 結婚についての真剣な話をしようとしていたのにも関わらず、その話は一切せず、飲んで食べて楽しくおしゃべりをして終わってしまった。自分の愚かさが腹ただしい。

 そしてなにより、仁が、とても気さくで、気取らない人だったため、心を許してしまったのがいけない。深く知らなければよかったと思ったが、それは遅い。しかし、今の醜態を逆手に取ればこんな女性は社長夫人には似つかわしくない。これはチャンスと、



「名波さん、私はこんなです。ぜひともこの結婚はなかったことにしてください!」





レストランで言えなかった一言を言う。車内で膝を仁に向け、深々と頭を下げる。





「俺の周りは計算高いやつか、気取った奴、裏表のある者ばかりだ。あなたのような人が傍に居てくれると、心が休まる」



仁は、負けない。





「酒癖が悪いです!!」

「抱っこと強請るくらいは、酒癖が悪いうちに入らない」

「やっぱり何かしていたじゃないですかー!! 本当に抱っこって言いましたか?」

「いや、言わない」

「だって、抱っこって強請ったって!」

「そう言っただけ」





 葵は仁の言う事が全く信用できず、じとっと見る。

 くしゃくしゃになっている葵の髪を直しながら仁は優しく葵を見つめる。





「もう、お嫁にいけない……」



葵は、両手で顔を覆った。





「俺が貰うから」



仁の放った言葉は、破壊力満点で、真剣な目が葵を離さない。

 まんまと仁に丸め込まれ、思考回路もおかしくなった葵は、何も考えられないまま自宅に着いてしまった。