葵は見合いも断り、すっきりしていた。仁の事も忘れかけ、いつもと同じ、慌ただしい日常が戻っていた。

だが、そう思っていたのは葵だけであった。





「ねえ、お母さん。お父さん元気がないけど、具合でも悪いの?」





から元気というのだろうか、一生懸命に明るくしているのが葵には分かった。





「……」

「お母さん。何かあるの? 知っているなら教えて、心配だから」





台所で夕飯の支度をしていた恵美子に葵は詰め寄った。

恵美子は支度の手を止めて布巾で濡れた手を拭いた。





「……お父さんには葵には絶対に言うなって言われていたのよ。……お父さん、やっぱり部長さんと気まずいみたい。会社こそ辞めさせられないけれど、どこか出向させられるみたい」



恵美子は、夫の義孝の気持ちも分かるし、子供でもある葵の気持ちも分かる。まして、気の進まない結婚は、母親としてさせたくないのが本音だ。複雑な思いが表情に出ていた。





「え!? なんで? まさか、お見合いの件で? ……名波さん? 名波さんが圧力をかけてきたの? そうなの?」



葵は、焦った顔で恵美子に詰め寄る。





「それは違うみたい。部長さんは自分の立場を気にしているみたいで」

「そんな……」

「お父さんも、お母さんも結婚は望んでいないわ。お父さんだってあと何年かしたら、定年の年になるのだから、出向で仕事して気楽に頑張るよって」





こんなことになっているとは考えても見なかった。葵も社会人なら少し考えれば分かったことだったのだ。名波 仁が相手ではもう断れないという事だ。仁が断って来たのならまだしも、話を進めてほしいと言ってきた。もうそこで、葵の人生は決まっていたのだ。仁の立場と言うものが、葵には納得できなかった。何かあるのではないかと、思い始める。





「お母さんごめん、ご飯はいらないや。ちょっと出かけてくる」





明るく過ごして来た葵だが、がっくりと肩を落としてしまう。





「葵……」





 葵はバッグを持つと、家を出た。





 「参ったなあ」





 閉めた玄関のドアを背にして、踊り場の蛍光灯を仰ぎ見た。