『もしもし』

「あ、お母さん? 葵」

『あら、こんな時間にどうしたの? 珍しいじゃない? 何かあった?』

「あったわよ、ねえ、仁さんにここを教えたのは誰?」

『……』





一瞬の間が、葵の予想が的中したことを知らせる。





「お母さん!」





つい大きな声を出してしまう。





『お父さんよ』

「お父さん!? なんで!? 絶対に教えないでって言ったのに!」

『葵、自分に素直になりなさい。意地を張っていては良いことは何もないの。仁さんはね、時間の許す限り、家に来てね、葵の居場所を教えて欲しいって、ずっと通っていたの』

「仁さんが?」

『それで、とうとう、お父さんが根負けして、教えたのよ』

「……」

『お父さんが……あのお父さんが教えたのよ。その意味を考えなさい』

「お母さん」

『お父さんは、仁さんから何もかも聞いてその上で教えたの。葵は素直になるだけでいいのよ』

「……お母さん……どうしたらいいの?」

『さっきも言ったでしょ? 素直になりなさい』





葵は電話を切ると、ロッカーに寄りかかり、深いため息が出る。





「素直って……意味がわかんない」





ロッカー室から出ると、フロントに戻る際に今度は潤と出くわした。

つくづくついてないと、葵はため息がついて出る。





「元気そうだね。葵ちゃん」

「お久しぶりです。潤さん」





従業員らしく、頭を下げる。





「髪も伸びて、感じが変わったね。元気そうだけど、幸せそうじゃない」

「潤さん……」





葵は幸せそうじゃないと言われ、潤から視線をはずしてしまった。



ここに来て、一から出直すんだと張り切って仕事をした。暫く忘れていた楽しむことも思い出すことができた。でも、潤が言うように幸せじゃなかったかも知れない。



家に帰れば話し相手はテレビ。和気あいあいとして楽しいが、腹を割って話が出来る久美の様な存在もいない。



夜、寝るときは決まって仁を思い出していた。





「一番傷ついたのは葵ちゃんなのに、俺は仁ばかりを気にかけてしまっていた……ごめんな」

「潤さん、なにも謝ることなんかないです。もう、過ぎたことです」

「そうかな? 仁はもちろんのこと、葵ちゃんももう一度仁とやり直したいと思っているんじゃない?」

「え?」

「あれから仁は暫く目が離せなかった。会議も上の空だし、メシも満足に食べなかったし…おばさんからは絶縁状態だし、綾ちゃんからも罵られ、悲惨だったよ」

「お義母さんが?」

「ああ、おばさんは、葵ちゃんのことをとても可愛がっていたから、そりゃあ怒ってね」





葵は仁の母理恵を思い出していた。結婚式の打ち合わせや、衣装選び、自分のことのように葵の結婚を喜び楽しんでいた。少し煙たがってしまったことを後悔する。





「そうですか」

「毎朝、毎朝、仁の世話が大変で大変で……なあ、葵ちゃん。仁と話をしてやってくれ。頼む」





潤は深々と葵に頭を下げた。





「ちょ、ちょっと、潤さん! 困ります、頭を上げて下さい!」





葵は、必死になり潤の頭を上げようとしている。





「葵ちゃん、全面的に仁が悪い。だから罵ったっていい、殴ってもいい。葵ちゃんの気の済むように何でもしていい。だから頼む、会って話をしてやってくれ。毎日、毎日、葵ちゃんのことで一杯なんだ、あいつ……」

「潤さん……」





葵は仁を羨ましく思った。ここまで思ってくれる人がいるということに。





「考えてみます。でも……急すぎて……気持ちの整理がまだ……」

「もちろんだよ。葵ちゃんの気持ちが一番なんだから」

「はい」





潤と別れ、葵は重苦しい気持ちのまま仕事に戻らなければならなくなった。こんな精神状態のときは何か、失敗をしそうで怖い。



やはり嫌なことは的中するようで、厨房で食器を揃えているときに皿を割り、おまけに慌てて片付けようとして指を切った。その前は、クリーニングスタッフがかけていた掃除機のコードに足を引っ掛け転んだ。





「もう……」





事務所に行き、消毒をして絆創膏をはる。



ふと、思い出したことがある。指を切ったとき仁が手当をしてくれたことだ。あれは後ろめたさからじゃなく、本当に心配をして手当をしてくれていたのだと、時間が経った今、そう考えることが出来る。





「逃げてばかりじゃだめか……自分も前に進めないもんね」





葵は、決心したように事務所を出て、今までのように隠れることを止めた。普通通りに仕事をして、仁に会ったらそこでまた考えればいい。自分に素直になって行動しようと決めた。