いろはにほへと



当たり前だけど、先生はきょとんとした顔をした。

でもそれは一瞬で、次の瞬間には、うーんと悩ましい表情になる。


「ーそうだね…中条の言う様に、自分の好きな事を仕事に出来る人は、ほんの一握りだから、、幸せと言って良いんだろうと思う。ただ…」


言いながら、葛城先生は、最前列の机に腰掛けて、黒板を見た。


「中条が、今何を好きなのかは分からないけどー例えば、絵を描くことが好きな人間が居たとしよう。才能もあったその子にとって、絵を描くことは自尊心に繋がっていて、息抜きにもなる、大切なモノだ。どんなに嫌な事があっても、絵を描いてさえいられたら忘れられる。」

私は、さっきまでと変わらない位置で、先生の視線の先を辿る。
黒板を見る先生の目に、何が映っているのかは分からない。


「そして、認められて、仕事に出来たとしよう。だが、ある程度の自信があって入ったのに、その世界には、自分と同じか、それ以上のレベルの人間がごろごろ居るんだ。勿論、嫉妬もあるだろうし、今までなかった批判もされる。自分の一番大事な部分に土足で入られて、傷付けられる。」


黒板から目を離した葛城先生は、今度は前屈みに手を組んで、私を見た。



「自分の一番の救いだった場所が、闘いの場所になったら、その子は辛くなった時、何処に逃げるんだろうね?」



ー『何にも知らない、ひなのの傍にいるのが、楽だった。』


再会の時、そう言ったあの人の言葉が、今更ながら、蘇った。