『だいすきなママへ
いつもおいしいごはんありがとう。
これからもよろしくね。みわ』

 カレーのルーが煮込まれ食欲そそるスパイスが香るキッチンで、唐沢結衣(からさわゆい)は愛娘である美和(みわ)からのラブレターを何度も読み返す。当の美和はコンロの傍でカレーの完成を待ち遠しそうな顔で見ている。その屈託のない澄んだ瞳に癒されつつ手紙を眺める。
 小学生に上がったばかりの美和も味覚が発達し、食べ物の好き嫌いを言うようになった。正しい母親像からすれば、好き嫌いなくなんでも食べさせるのが本分ではあるが、可愛い笑顔を見るとつい好物ばかりの献立となる。
「もう少しいい子で待っててね、もうすぐカレー出来るから」
「うん、美和カレー大好き。いい子にしてる!」
 愛娘の笑顔を見て結衣も笑顔になる。手紙をテーブルに置いて時計に目をやると、そろそろ夫である孝之(たかゆき)の帰宅時間が迫っている。
 孝之と結婚して早八年となるが、未だに夫婦円満で結衣自身幸せな毎日を送れていると実感する。ありきたりなセリフだが『何があってもずっと二人で支え合っていこう』というプロポーズの言葉が、未だ心に深く刻まれていた。その言葉通り、孝之からは有言実行で支えられ育児にも家事にもとても協力的だ。
(本当に私は幸せ者だ。優しく頼りがいのある夫に、可愛い娘。私の全てがここにある。そうよ、この幸せを手放してはダメ。何がなんでも守らきゃ。私の居場所はここなのだから……)
 幸せを噛み締めつつ、手首に巻いた湿布を見つめる。しばらく考え込んでいると、玄関の扉の開く音がし孝之がリビングに入ってくる。
「おかえりなさい、アナタ」
「ただいま。またカレーか。ホント好きだな?」
「アナタも好きでしょ? いつもお代わり二回するし」
「まあな」
 苦笑いしながらスーツを脱ぐ孝之の足に美和は楽しそうに絡みつく。
「パパ、お帰りなさい! 今日はカレーなんだよ!」
「そうだね。美和も大好きだもんなカレー」
「うん!」
 楽しげに話す二人を見ながら結衣は温かい気持ちになる。
(いつまでもこうしていたい。ずっとこんな光景を見守っていたい。私の幸せの場所を……)
 ポテトサラダ用のじゃがいもを潰しながら結衣は心に強く思う。スーツから部屋着に着替え、率先して配膳の準備をする孝之が思い出したように話し掛けてくる。
「そうそう、さっきスーパーの曲がり角で警察の検問があってさ、ひき逃げ事件があったらしいぞ?」
「そう」
「なんでも被害者は小学生の女の子で、亡くなったらしい。惨いよな。もしこれが美和だったらって考えるとゾッとするよ」
「そうね」
「あれ? お前買い物のとき検問無かった?」
「ええ、きっと私の買い物の後に起こったのね」
「そうか、美和にも車に気をつけるようにしっかり言わないとな」
「そうね」
 気のない返事をしていると訪問客を報せるチャイムが鳴る。
「あっ、俺出るからそのまま料理してて」
 リビングから出て行く孝之を見送ると、結衣は料理を止めタオルで手を拭き美和の元に行く。
「美和、抱っこしてあげるからこっち来て」
「ええ~、美和もう子供じゃないよ」
「いいから、ね?」
「やだー」
 反対しながら距離を置く美和を結衣は困った顔で見つめる。そこへ孝之が帰って来る。顔色は悪く真っ青になり、動揺しているのか震えてどこかぎこちない。その背後にはスーツ姿の男性数人と警察官が立っている。黙って見つめていると刑事と思われる五十歳くらいの男性が口を開く。
「唐沢結衣さんですね? 今日昼過ぎにあった死亡ひき逃げ事件についてお聞きしたいことがありまして、ご同行願えますか?」
 目の前の刑事は穏やかで丁寧な口調だが、背後の警察官達は反対に緊張した面持ちでいる。美和はこれから何が起こるのか分からず、不安な顔をしている。一方、結衣は表情を一切変えずに言う。
「美和を、娘を一度だけ抱っこしてもいいですか?」
 問い掛けに刑事は無言で頷く。
「美和、抱っこさせて?」
 不安感が募っているのか美和は言われるまま大人しく抱っこされる。孝之は辛そうな顔でその姿を見つめる。美和を抱きズキズキと痛む左手首と同時に、心の中にある幸せの場所が崩れて行くのも感じる。しばらく抱きしめると結衣はゆっくり美和を下ろし孝之の前に来る。
「ごめんなさい。美和をお願いします」
 頭を下げると結衣は刑事に囲まれ自宅を後にする。唐沢家の前に止まる赤色灯全開のパトカーは、野次馬で取り囲まれていた――――


――数ヶ月後、懲役六年を求刑され刑務所に服役することになった結衣は、残された美和のことばかりが気に掛かる。
(急に私がいなくなって美和泣いてるわよね。私、なんてとんでもないことを。早く出所してちゃんと美和に謝りたい。六年後だなんて美和はとっくに中学生。一番母親が必要な今の時期に私は一体何を……)
 部屋の片隅で膝を抱えたまま動かない結衣を、同部屋の受刑者は遠巻きから見つめる。受刑者には服役後、開き直るタイプと他人との干渉を拒み引きこもるタイプとあるが結衣は後者にあたる。今日は土曜ということもあり、刑務作業もなく皆それぞれに好きなことをしている。ぼーっと壁を見つめていると、同い年くらいの女性が話し掛けてくる。
「アンタが来てそろそろ一週間だけど、何か話したら? 辛気臭くてしょうがないよ」
 女性の問い掛けに結衣は微動だにしない。
「そうかい、勝手にしな」
 諦めた様子で去って行くその隣で、机に向かって熱心に筆を進める女性に目がいく。歳の頃は五十歳くらいで、姿勢も良く品の良さそう雰囲気を醸し出している。興味深そうに近づくと女性の方から話し掛けてくる。
「手紙です。週に一回、家族にこうやって書いてるんです。貴女も書いてみる?」
(手紙……。そうだ、この手があった!)
「あの、システムというか、差し出す手順とかを教えて頂けますか?」
 ここにきて初めて生き生きした結衣を見て、周りの者も興味深げに二人を眺める。
「貴女は入所したばかりだから回数に制限があるけど、月に四回は手紙を送れるわよ。ここでの素行が良ければ制限なく、毎日だって送れるようになる。手紙をたくさん書いて送りたいのなら、真面目に皆と仲良くすることね」
 まともに挨拶すらせず引きこもっていたことを暗に示唆されて結衣は恥ずかしくなる。その後、手紙のことを教えてくれた小夜(さよ)、最初に話し掛けてきた同い年の加奈(かな)の他、他の受刑者とも挨拶だけは交わす。
 手紙の送付に関することを小夜から聞くと、結衣は便箋を前にして心を落ち着かせる。結衣の心には最後に抱きしめた感触と気持ちが自然と胸に込み上げる。
(美和、ママずっとあなたの幸せを祈って生きて行く。今は手紙でしか励ませないけど、ここからでも母親らしいことを少しでもしてあげる。待っててね、美和……)
 心を決め鉛筆を取ると、結衣は便箋に対して真剣に向き合う。加奈はその姿を冷めた眼差しで見つめていた。