毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が、ベルリン経由で西ドイツに大量流出した。

特に自営農民や技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与えた。

こうして西側から東ドイツを守る為、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設される事になる。

実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁といえ、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが『ベルリンの壁』である。

その名から誤解を招きやすいが、東西ベルリンの国境上だけに壁があった訳ではない。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺された。

死亡者数は合計192人。

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した。

68年時点では総勢8000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者がベルリンの壁担当の警備兵となっていた。

12時間勤務であり、2人1組で行動する事が求められていた。

銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃される事もあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった。