水曜日のピアノの帰り道。
電子ピアノは美園先生に返した。
空良が弾いてくれないのに、持ってる意味がない。
練習は辛うじてこなした。
美園先生は電子ピアノを返した理由を聞きたいだろうに、私の気持ちを察してか何も聞いてこなかった。
やっぱり、美園先生は大人の素敵な女性だ。
その優しい気づかいに甘えて、私は黙って美園先生の教室を出た。
あらゆる感情が、消えてしまったように、虚ろだった。
世界は、こんなに静かだったのだろうか。
何も感じない。
ただ、空良に会いたい。
心が死んでしまいそうだった。
いないとわかっていても、私はあそこに行くだろう。
ずっと、空良をあそこで待ち続ける。
それしかできないから。
待っていれば、いつか戻ってきてくれるという儚い望みにすがるしかないから。
「――」
神社へ曲がる道の前に、誰かが立っている。
背の高い、三十代ぐらいの男の人だ。
警察だろうか。
その人は、歩いてくる私に気づいてこちらを向いた。
不意に、私は気づいた。
空良に、少し似ている。
不思議だった。
空良のお父さんを見ても、そんな風に思わなかったのに。
「たかもり、かのん、さん、ですよね?」
その人は、私を呼んだ。
空良の叔父です。
そう言って、その人は名刺をくれた。
でも、天野ではなかった。
「あ、空良の母親の弟なんで。天野じゃないんだ」
私に会いに来たと言うことは、空良が話したのだろう。
お母さんのほうの弟なら、空良を守ってくれるはずだ。
「そ――天野くんは、どうしてますか?」
一番聞きたかったことを、私は聞いた。
「警察に保護された前日に、父親にひどい暴行を受けていて、肋にひびが入っていたんです。今は入院していますが、合間に事情聴取を受けたり、児童相談所の方が来たりとちょっと慌ただしいんです」
「入院してるんですね……よかった」
私はほっとした。
学校を休むくらいだ。
すごく我慢していたんだろう。
それに、保護と言った。
逮捕じゃない。
空良のことが新聞に載らないのは、お父さんの虐待のこともあるからだろう。
まだ未成年だから、きっと表沙汰にはならないのだ。
「救急車は空良が呼びました。自分のためじゃなく、父親のために。ちょうど担任が家庭訪問に来てて、天野さんが病院に搬送された後、付き添っていた空良も殴られた痕があったので診察を受けて、それで警察が来たんです。空良は自分が父親を殴ったとしか言わなかったけど、空良の体には日常的な虐待の証拠があったので、死んだ母方の家族の僕らに連絡が来て、急いで此処に来たんです」
そうか。
三日も休んだから、担任が様子を見に空良の家に行ったのだ。
戻った空良と父親に何があったのかは、一目でわかっただろう。
事情を知っているから、学校側は表立って騒がないのだ。
「退院したら、空良は僕が引き取ります」
どこか予想していた結末に、身体が震えた。
叔父さんはいい人そうだった。
話す口調も穏やかだし、何より、空良の家族だ。
この人に引き取られるなら、空良にとっては良いことなのだ。
もう、殴られる心配も、夜中に独りで家を出て行くこともない。
嫌な思い出を忘れて、この町から離れて、幸せになれる。
そしてそこに、私はいないのだ。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
「――病院に、行っちゃだめですか? 引き取るって、どこに、行かれるんですか? すごく、遠いんですか? もう、会っちゃ、だめなんですか……」
「落ち着いて、高森さん」
矢継ぎ早に問う私を、叔父さんは宥めるように片手をあげた。
「お見舞いは、今はダメです。警察の方や児童相談所の方以外にも学校の先生方もいらしてるから、あなたのことがバレると、空良も困った立場になる。せっかく、いじらしいぐらい必死で隠してるのに」
「私のこと、話してないんですか? じゃあ――」
どうして、この人は、私のことがわかったんだろう。
私の疑問を見透かしたように、叔父さんはスーツの胸ポケットから折りたたまれた紙を出した。
「走っていく空良と女生徒を見たという近所の人がいたので。それに、君の楽譜が、空良の部屋にあったからね。警察の方が気づく前に空良の着替えを取りに行った僕が隠しちゃったけど」
「――」
私が、空良にあげたものだ。
筆記体で書いた、私の名前が残っている楽譜。
「父親の方は酔いが覚めても自分に都合の悪いことは何も話しません。怪我の治療もありますが、重度のアルコール依存症のようですので、隣町の大学病院の方に移送されました。申し訳ないけど、虐待の証拠も多く出ているから、彼の親権は取り上げられるでしょう――血も繋がっていないし」
「え?」
「もともと、姉には婚約者がいたんです。結婚直前に、婚約者が事故で死んで、すでにその時、姉は妊娠していました。天野さんは、姉と婚約者の共通の友人だったんです。それを承知で結婚したんですが、やはり、空良が産まれてからはぎくしゃくしたみたいで姉からは相談を受けてました。その矢先に、姉も病気であっという間に亡くなって、葬儀が済んでから、天野さんは空良を連れて逃げるようにいなくなってしまって」
天野さんにしてみたら、空良への仕打ちは、結婚してもうち解け合えなかった姉への仕返しみたいなものだったんじゃないかな――独り言のように、叔父さんは締めくくった。
「そのこと、空良も……?」
「話しました。気が抜けたみたいに聞いてましたよ。血が繋がってなかったんなら、仕方ないって言ってました。そういう事でもないんですけどね。自分の子どもじゃないと愛せないなら、結婚するべきじゃなかった。姉が死んだ後、連れていくべきじゃなかった――僕はそう思います」
「――」
叔父さんの言葉には、怒りがにじんでいた。
空良への仕打ちが許せないんだろう。
でも、それは所詮私と同じで他人事なのだ。
お父さんと空良の中にあった思いは、彼らだけで、昇華しないといけないものだ。
暴力を震いながらも空良を手放せなかったお父さんの思いも。
暴力を震われながらも逃げられなかった空良の思いも。
そこに私達は入れない。
外から見ているものには関われない思いなのだ。
結局は、『仕方ない』――その一言でしか空良はお父さんを許せない。
空良を思って、私はまた泣いた。
空良、空良が、悪いんじゃなかったよ。
本当の、お父さんじゃなかったんだよ。
何かが、どこかでずれただけだった。
それは、誰が悪いとか何のせいだとかで判断できないものだから。
だからもう、答えの出ない問いを、解こうとしなくてもいいんだよ。
「参ったな、僕がいたいけな中学生を泣かせている悪者みたいだ」
「す、すみません」
「いいえ。これからももしかしたら甥っ子のことで君に相談することになるからよろしく」
「え?」
「空良が退院したら、引っ越します。といっても僕の仕事上駅に近いとこになるけど、学区は越えないから今までと変わらず、空良と仲良くして下さい」
「え?」
馬鹿みたいに、私は繰り返した。
てっきり、空良は転校してこの町を離れてしまうと思っていた私には、本当に驚きだった。
「空良も君のことは最後まで何も言いませんでした。ただ、ここに、この町に、いたいと」
「ここに――?」
「ええ。ここには、君がいるからでしょう――空良が、それだけを望んでいるので」
「いてくれるんですか?」
「ええ」
涙が、また零れた。
主よ、人の望みの喜びよ。
その時初めて、私は神様に心の全てで感謝した。

