「あれ、天野がいないね」
 メグが3組の前を通り抜けるときに言ったその一言に、私は足を止めた。
「――」
 本当だった。

 空良がいない。

 いつもは座ったまま窓の外を見ている姿がなかった。
「しばらく、休んでなかったのに」
 小さく呟いた言葉は、メグには聞こえなかったらしい。
「花音?」
 メグが立ち止まっていた私に気づいた。
「ごめん、何でもない」
 自分の教室に入っても、落ち着かなかった。
 嫌な予感がする。
 今の空良に休む理由なんてない。
 家で、何かあったのろうか。
 その予感は、どうしても消えてくれなかった。



 月、火、水と、空良は学校に来なかった。
 ピアノが終わって、いつものように神社に行っても、空良はいなかった。
 いつもなら、私を待っていてくれるはずなのに。
 不安になった。

 どうして来ないの?
 何があったの?

 もう、我慢できなかった。
 空良の家へ行こう。
 私は急いで神社の脇の小屋に入ってリュックとサイドバッグを置いた。
 そのまま小屋を出る。
 少し速足で向かえば、空良の家まではすぐだった。
 古いアパートの階段を上がり、空良の家の前に立つ。
 チャイムはならせなかった。
 だからドアノブを回した。
 玄関の鍵はかかっていなかった。
 ドアチェーンもかかっていなかった。
 私はゆっくりドアを開けた。
 そして、静かに中に入った。
「空良? いるの?」
 人の気配がしない静かな玄関で、私は小さく呼びかけた。
 足元を見ると空良がいつも履いていた靴だけがある。

 いるんだ。

 意を決して、私は上がった。
「おじゃまします……」
 前に来た時と違って、家の中は明るかった。
 居間は、テレビの前のテーブルにコンビニ弁当の空とビールの空き缶がいくつも置いたままだった。
 それ以外は、あまりものがない印象だった。
 居間の奥に少し開いた扉が見えた。
 覗くと、ベッドには、布団も掛けずに身体を丸めて倒れている空良がいた。
「空良!」
 慌てて駆け寄る。
 また、唇の端が切れていた。
 殴られた跡が、はっきりとわかる。
 目を開けて、空良は少し気怠げに私を見た。
「花音……? 何で、ここに?」
「学校、三日も休んだから、気になって。ごめんね」
「三日? じゃあ、もう水曜日か」
 起き上がろうとする空良を、私は止める。
 空良は、とても具合が悪そうだった。
「殴られたの?」
「ちょっと、今回はひどくてさ……起きれなかった」
 私を安心させるように、空良は笑って見せた。
「もしかして、高校に行きたいって、言ったから……?」
「――」
 沈黙が、全てを肯定していた。
 私のせいだ。
 浮かれて、空良を巻き込んだ。
 こうなるって、本当は心のどこかで感じていただろうに、空良はそれでも父親に言ったのだ。
 そうして、こんなになるまで殴られたのだ。
「もう帰れ。親父が帰ってくる……」
 こんなときでも私を心配する空良が哀しかった。
「――空良が眠ったら、帰る」
「じゃあ、すぐ、寝る……」
 冗談めかして言う空良が、愛しかった。
「来てくれて……ありがとな」
 そういうと、空良は目を閉じた。
 しゃべったせいか、唇の端が切れてまた血が滲んでいた。
 それを見たら、泣きたくなった。
 せめてと思い、ベッドの上掛けを空良の体にかけてから、私は部屋を出た。
 玄関に向かおうとして、ドアが乱暴に開かれる音に、私は動けなくなった。
 コンビニの袋を持った、体の大きな男の人が入ってくる。
 足取りは、おぼつかないように見えた。
「――」
 私を見て、驚いたようなその顔は、まだ若いはずなのに、どす黒く、病的にも見えた。
「誰だ?」
 声は低く、怖かった。
 空良と全然似ていない。
「――天野くんの、友達です。お邪魔しています」
 頭を下げたが、疑わしい表情が和らぐことはなかった。
「友達だぁ? ガキのくせに、女をたらしこむのだけは一人前だぜ」
 驚いて言葉が出なかった。
 自分の子供のことをそんな風に言うなんて、信じられなかった。
「もう、帰ります。お邪魔しました」
「待てよ」
 動こうとする私より先に、空良の父親が近づいてきて、私の腕をつかんだ。
 お酒臭い。
 酔っているんだ。まだこんな時間なのに。
「放してください」
「せっかく来たんだ。俺の相手もしていけよ」
 乱暴に腕を引かれて、私はその場に倒れた。
 そのまま大きい体がのしかかってくる。
 声を上げようとして口をふさがれた。
 面白がるように私を見ているその目は、酔って自分が何をしているのかもわからないようだった。

 嫌だ。
 怖い。

 怖くて怖くて、はねのけたいのに身体が動かなかった。

 空良も、こんな風に怖かったのだろうか。

 こんなに怖いのに、誰にも助けてもらえなかったんだ。

 空良。
 空良。

 涙があふれた。

「花音!!」
 叫ぶなり、空良が私にのしかかっていた父親につかみかかって、一緒に倒れた。
 私には、一瞬のことで、それを理解するまでに数秒を要した。

「……空良!!」

 ようやく理解して、声が出た。
 でも、私の声は空良には届いていなかった。
 言葉にならない声を上げて、空良は父親を殴っていた。
 何度も。
 何度も。
 壊れた機械のように。

「空良――やめて……」

 涙がこぼれた。
 わめきながら父親を殴り続ける空良が痛ましくて、見ていられなかった。
「空良!」
 震えて力の出ない体に、必死に力を入れ、私は、馬乗りになって父親を殴りつけている空良の背中にしがみついた。
 そして、夢中で叫んだ。

 もういい。もうやめて。このままでは、殺してしまう。

 最後の言葉に、空良は感電したように動きを止めた。
 シャツごしに触れていた空良の身体は熱かった。
 心臓の鼓動が荒い呼吸とアンバランスに脈打っていた。
 父親はというと、ぐったりとしたままだった。
 顔は、私が今まで見たこともないぐらいに腫れあがっていた。
 そして、血で汚れていた。

「――来い、花音」

 空良に手を引かれて、アパートを飛び出した。