神社の石段の前まで、私は走った。
 そこで、呼吸を整える。
 でも、呼吸を整えていたら、真正面から空良と向き合うのが、急に怖くなった。
 なので、私は来た道を戻り、一度家から向かったことのある神社の裏のほうに回った。
 回り道だったが、心は落ち着いてきた。

 怖くないって、言わなきゃ。

 それが、私の中で大きくなっていった。
 静かに不規則な幅の階段を登ると、もう神社の脇だった。
 足音を立てないように静かに正面へ近づく。
 階が見えてくる。
「――」
 私は、それ以上動けなかった。
 階に、膝を抱えて座り込む、空良の姿が見えたから。
 身体を丸めて、空良はずっと正面を見据えていた。
 石段を上ってくる私を、待っている。

 空良はそうしてずっと、私を待つのだろうか。
 膝を抱えて、まるで捨てられた飼い犬が主人を待つようにじっと。

「――」
 もう気持ちを隠せない。
 溢れてくるこの想いを、抑えておけない。

 空良が――好きだ。

 離れていてわかった。
 どんなに私と彼の世界が遠くても、一緒にいたい。
 声を聞きたい。
 私が知らない顔をいくつもっていてもいい。
 私といる時の空良は、私だけのものだから。
 靴が石畳を踏む音をたてるのを、私はあえて気にしなかった。
 空良が顔をあげてこちらを見た。
 私は、思わず足を止めた。
 弾かれたように立ち上がって、空良が走ってくる。
 でも、触れれば届く距離まで来た時、彼はそれ以上近づくのをやめた。
 それ以上近づいたら、私が逃げると思っている。
 違うのに。
 彼はまだ怖がっている。
 そんな必要ないのに。

 私が離れていくのが、そんなに怖いの?
 私は、どこにも行かないのに。

 そう思ったら、嬉しいのに、腹が立った。
 彼の腕を掴むと、神社の正面に向かって歩き出す。
「――」
 彼は黙ってついてくる。
「座って」
 言われて、彼が階に座った。
 私もその隣に座る。
 いつものように。
 静かだった。
 木陰が揺れて、時折鳥のさえずりが聞こえて、それ以外、何もない。
 私と、空良だけの世界。
 それだけで、こんなに嬉しいのに。
 こんなに美しいのに。
 どうしてこんなに彼を怖がらせたまま、待たせてしまったのだろう。
 空良ではなく、自分に腹が立ったのだ。
「ごめんね、空良」
 言ってから、私は空良を見た。
 無表情な空良の、瞳は脅えていた。
「私、怖かったんじゃないの。怖くないって言ったのに、空良がそれを信じてないって思って、それが、悲しかったの」
 そう言われて、空良のほうが驚いた顔をした。
「――怖く、なかったのか? 俺、東堂を殴って脅したのに?」
「怖くなかった。ただ、びっくりしただけ。でも、空良は信じてなかった。だから、泣いたの。嫌だった。信じてないのに、怖くないなら逃げるなって、交換条件みたいに、気持ちのないキスしたから」
「――」
 空良は。
 安堵したように、ようやく微笑った。




 空良は、彼を見つめる私の両手をそっととった。
「ごめん」
 そうして小さく謝った。
「でも、気持ちのないキスを、したわけじゃない。俺、花音とキスしたかったんだ。すごく、そうしたかったんだ」
 少し下を向いてそう言う彼が、嬉しかった。
「花音、キスしたことあった? 俺とする前」
 私はあわてて首を横に振る。
「そうだよな、普通、俺達ぐらいだよな、初めてキスしたりすんの」
 彼の手が、私の手を少しつよく握った。
「でも、俺初めてじゃない。キスすんのも、セックスすんのも」
 その言葉の意味を理解したとき、心臓が痛くなった。
 そんなこと、聞きたくなかった。
「ごめん、変なこと言い出して。でも、ホントなんだ。花音といると、俺、自分がホント汚い奴なんだって思うけど、でも、花音なら、俺のこと信じてわかってくれるから、隠してたくないんだ。全部話して、それでも俺のこと嫌じゃなければ、一緒にいて欲しい」
「……嫌になったら、どうするの?」
「その時は、離れていい。もう、ここにも来なくていい。俺も待たない」
 簡単に、彼は言った。

 そうして、私を切り捨ててしまえるの?
 そんなこと、出来るはずないくせに。

 こんな時なのに、私は嫉妬していた。
 空良と初めてキスした人に。
 こんな感情があることも、今まで知らなかった。
 空良は、私の心を揺さぶる人だ。
 良くも、悪くも。
 そんな空良を簡単に切り捨てられないのに、空良にはそれがわからないのだろうか。
 一緒にいて欲しいと言いながら、簡単に離れていいとも言える彼を理解したかった。
「じゃあ、話して。私の気持ち、そんなに簡単に変わらないから。何を聞いても、空良のこと、嫌になったりしない」
 繋いだ手を、私は強く握りかえした。
 空良は、少し訝しげに私を見て、それから、私が握った手を、見た。
 私は待った。
 美園先生や空良が、待ってくれたように。
「――」
 空良は、息を吸って、吐いてを何度か繰り返して、話し出した。
「――俺の初めての相手、親父の再婚相手だったんだ」
 私は驚いて、彼の顔を見つめた。
「それも、無理矢理。笑っちゃうよな、俺、無理矢理、相手させられたんだ。こういうのも、レイプされたって言うのかな」
 わざと何でもないことのように、彼は言った。
「本当は、すごくヤだったんだ。でも、そんとき、俺まだ小五で、まだ何にも知らなくて、逆らえなくて、ただ恐くて――」
その時のことを思い出したせいか、彼の手は、冷たくなっていた。
 顔色も、どこか青ざめていた。
 私がそっと握り返すと、彼は私に視線を戻して、そっと息をついた。
「何度目だったかな。親父に見つかったんだ。しかも、やってる最中に。
 俺は、正直ほっとした。親父が助けてくれるって。もうこんなことしなくていいんだって、そう思った」
 空良は、遠い目をしていた。
 私には近づけない、寂しい目を。
「――でも、親父は、俺をまるで腐ったゴミを見るみたいな風に罵った。俺がたぶらかしたんだろうって怒鳴った。そん時、初めて親父に殴られた。初めてで、ろくに抵抗も出来なかった。鏡見た時はびっくりした。人間の顔って、こんなに晴れ上がるもんなんだって。
 その後は、親父は離婚して、ここに引っ越して、女を連れ込むのは週末だけになって、殴られるのにも慣れた。殴られてるほうがましだ。酔って帰ってきたときだけだし――」
 そのまま、しばらく空良は俯いたま動かなかった。
 それでも、全部話し終えたせいか、空良の手は少しだけ温もりを取り戻していた。
「俺のこと、軽蔑する?」
 言葉が出なくて、私は慌てて首を横に振った。
「よかった。抱きしめても、平気?」
 私は頷く。
 壊れ物を扱うように、空良は私を抱きしめた。
 身体は、震えていた。
 鼓動は、私より速かった。
 彼は、あの時のように私の反応に怯えていた。
 拒絶を、恐れていたのだ。
 助けてくれると思っていたお父さんから受けた暴力が、彼を臆病にした。
 だからこそ、誰にも期待せず、誰とも関わらず、壊れそうなほどもろい自分の世界を護っていた。
 たった一人で。
 涙が、溢れた。

「好き」

 思わず口にしていた。
「空良が、すごく好き。大好き。軽蔑なんてしない。嫌になったりしない。ずっと一緒にいる。だって、私のことわかってくれるのも、あなただけだから」
 抱きしめる腕が強く、哀しかった。
 それでも。

「俺も、花音が好きだ――」

 その言葉に。
 その声に。

 心が、震える。

 あなたは私を響かせる、美しい音。
 私は私の音楽を、ようやく見つけたのだ。